2016‐11経営者162_アズホールディングス_松田様

不確実性への挑戦で
自身の枠を広げ続け
新たな経営論で次世代経営に挑戦する

アズホールディングス株式会社 代表取締役

松田 元さん

高校入学直後に中退し、フリーターとして社会人になる。東京での1人暮らしを始め、16歳で大学入学資格検定(現・高等学校卒業程度認定試験)に合格。半年間、アメリカにて生活を送りビジネスへの興味を高める。紆余曲折を経ながら、18歳で早稲田大学商学部に入学、起業を目指しビジネスを学ぶ。在学中よりベンチャー経営者の下で経験を積んだ後、自らの会社を起業。フリーターによるコ・ソーシングでの営業代行ビジネスというモデルが当たり、25歳で5,000万円の利益を生み出し、さらにM&Aなどでグループ企業を増やしていく。新たな経営論である「レジリエンス経営」の確立で、次なる展開を目指す挑戦者に話を聞いた。
Profile
高校中退後、フリーターや海外生活を経験し、2002年に早稲田大学商学部に入学。在学中より起業を志し、ビジネスを学ぶ。フリーターによる営業代行ビジネスで成長を遂げ、2012年に企業グループ・アズホールディングス株式会社を設立。新たな経営論「レジリエンス経営」の確立により、次なる展開を目指す。
— 松田さんは、お若いながらも波瀾万丈なキャリアをお持ちだと伺っています。
実は、中学で一度中退しかかっていて、そのときは義務教育だったため、公立中学に編入させられました(笑)。高校は3日でやめたくなり、中退後にフリーターになりました。単に高校に通うことが面倒だったからですが、いまにして思えばメリットを感じられなかったからかもしれません。
 
中学・高校・大学を出て、サラリーマンになって東証一部の社長になれたとしても、年収3,000万円くらいしかもらえない。仮に高校へ3年間通っても良い大学に入れるかはわからないし、就職しても社長になれるかもわかりません。「それならば、やめてしまえ」という感じでしたね(笑)。人と違うことや自分にしかできないことをやりたい気持ちは、当時から潜在的に持っていました。
 
このとき、フリーターになったことが、私の初めての社会人経験でした。とりあえず、何かしなければいけないと思い、地元の酒屋さんで配達などのアルバイトをしていました。その酒屋の社長さんは、いまの私と同じ32歳と若かったのですが、昔はやんちゃだったそうで気が合いました(笑)。
 
当時、私は高校を中退するくらいだったので、付き合っていた友人も真面目ではない人たちばかりでした。なぜかお金を持っている人も多く、そのことをカッコよく感じた時期もありましたが、一緒にいると危険なことも多かったため、そのうち、このままでは先が見えないと感じるようになりました。
 
そこで、物理的にも環境を変えるため、地元・鎌倉を離れて東京で1人暮らしを始めることにしました。

フリーターとなり16歳で大検取得後、現役で大学合格

— たしかに、かなり波瀾万丈ですね(笑)。ですが、とても自立心の強さを感じます。 
自分の問題なので1円も親には頼るまいと思い、掛け持ちでアルバイトをして、貯めたお金で国分寺に家を借りて働くようになりました。せっかく東京に来たのでアルバイトだけではつまらないと思い、何かチャレンジすることはないかと探していたところ、「大学入学資格検定(以下、大検)」の存在を知りました。
 
現在は「高等学校卒業程度認定試験」という名前ですが、これに興味を持ち、立川にある大検スクールに通い始めました。そのときに多様性のある人たちとかかわった体験が、現在のアズホールディングスという会社につながっています。
 
そこでは、グレていた人、いじめを受けていた人、暴走族などがとても仲良くしていました。生徒に大検を取るという共有認識が生まれているため、そこでは構造上、いじめが起きにくい環境でした。柄の悪い人とおとなしい人が仲良く話をしているのを見て、これは面白い空間だと感じました。久しぶりに勉強に取り組み、当時は11科目ありましたが、16歳で大検を取ることができました。
 
単に環境や自分を変えてみたいという想いで大検を取ったため、大学に行くこと自体にはあまり興味がないと大検スクールの校長先生に相談しました。政治家や起業家など人とは違う職業に就きたいという漠然とした想いがある一方で、海外に行ってみたいとも思っていました。それを校長先生に伝えたところ、「絶対にアメリカに行きなさい」と勧められたため、アメリカに行こうと決めました。
またアルバイトでお金を貯めて、学年次としては高校2年生の12月から半年間、カリフォルニアに滞在しました。帰国後、渡米の経験から思うところがあり、日本の大学に入り勉強しながらビジネスをすることに決めました。再度、お世話になった大検スクールの校長先生に相談に行って、面白そうな大学に行きたいと言ったら、早稲田大学を勧められました。
 
そこで受験を決意するも、大学受験予備校に入るための試験ではことごとく落とされました。やむなく早稲田大学の合格体験記を綴った本を買い、独学の人たちがよく使っている参考書100冊をピックアップしました。
 
以後はずっと自宅に引きこもり、寝る時間以外、1日18時間くらい勉強していました。1人で勉強計画をつくり、独学で挑んだ結果、早稲田大学の商学部に受かることができました。そこで、起業を目標にした大学生活を送ることになりました。
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ー 結局、早稲田大学に入学したのは同期が高校を卒業した年と同じですね。紆余曲折しながらも現役合格とはお見事です。高校に行かなくても、キャリアデザインはできますね。
そうですね、そのまま高校にいたら確実に入れなかったでしょうし、中退して良かったかもしれません(笑)。大学では、商学以外にも哲学、歴史、宗教なども片っ端から勉強しました。疑問点を質問すると、教授からは自分の想定以上の回答が返ってくるため、「こんなに勉強って面白いんだ」と初めて感じました。
 
勉強にのめり込み、成績も首席手前くらいまでになりました。「現代マーケティング研究」というゼミに入りましたが、その教授が早稲田大学の理事にもなられた方で、「コトラーのマーケティング」などの代表的監修者でもありました。そのゼミでかなり鍛えていただきました。
 
就職活動の時期には、起業が目標だったため、大手、外資、ベンチャーのどこに就職するかで悩んだ結果、実際にベンチャー企業の社長に会いに行きました。その中で、たまたま出会った社長の1人が、UCバークレー卒業後に24歳で帰国し、親族の経営している株を買い取り、自分が事業を興し10年目という、当時の私には輝いて見える人でした。
 
私が「起業するなら、企業に入ってキャリアを積んでからのほうがよいのか、最初からのほうがよいのか、どう思われますか」とその人に聞いたところ、「君がこれから大企業に入って10年間キャリアを積んで32歳、そこから起業して5年間やって失敗したら37歳だ。いま起業して10年間やって失敗しても、まだ32歳だろう。要するに大企業を経由して企業経験を積むよりも、いまから起業したほうがよいよ」という明確な理論でした。
 
当時、私は20歳でしたが、その場で「社長の会社で修業させてください」と言って、社内ITプロジェクトの立ち上げや、野球選手のポータルサイトのプロジェクトをやらせてもらいました。その成果として、社内ベンチャーを創るために出資してもらってつくったのが、現在の会社の前身になるアビリオンという会社でした。
 
私が起業した当時は、「正社員より派遣社員のほうが得である」といった議論が週刊誌などで特集されていました。しかし、私は、派遣という形態はフリーターにとって幸せではないと思っていました。付加価値もなく業者に手数料を抜かれるだけなので、これはおかしいのではないか、そうではなくフリーターに本質的な価値を付けたうえで、派遣的な要素を満たすモデルを創ることができれば、本当の人財会社としてスケールするのではないか、と思っていたのです。
 
私も元フリーターですから、「元フリーターが、フリーターを応援して学生起業する事業って熱くないですか」と社長に話したところ、「それ、面白いね!」と共感を得ることができました。そこで、会社を設立することとなり、フリーター起業塾など、フリーターにセールス教育をする営業部門を作ったことが、私の最初の起業体験となりました。
 
残念ながら経営権を持たない悲しさで、その会社からは出ていくこととなりました。そして、2006年に自分でアズ株式会社を起業し、法人の営業代行ビジネスを始めたのです。

「セールスは情報編集業である」

ー どのようなビジネスを始めたのですか。
フリーター起業塾などで、当時付き合いのあったフリーターを何人か集めて創業しました。私が営業として法人顧客から仕事を取り、それをフリーターたちに割り振りながら営業教育を行いました。マネジメント過程では、営業活動を徹底的にプロセス化していくことをやっていました。創業時は無茶もしていて、「頑張るから、とりあえず100万円/月ください」といった営業でした(笑)。
 
案件をこなしていく中で、「セールスは情報編集業である」という結論に至り、商談機会を作ることをゴールにするサービスを開発しました。顧客候補のリストアップから始まり、マーケティングアプローチのプロセスを代行しました。時には初回訪問代行まですることもありましたが、基本は初回商談の機会提供に集中しました。
 
この発想が当たりました。「アポハンター」という基幹サービスはアポイント取りの代行で、これを皮切りに「アズノート」というリストアップ代行や、「ヒットマン」という商談代行のサービスなどを展開するに至りました。
 
TBSのテレビ番組「がっちりマンデー」や『朝日新聞』に注目のベンチャーとして取り上げられ、3億円ほどの売上で利益が5,000万円ほど出ていました。22歳で立ち上げた事業が、25歳でメンバーも20人ほどの規模となり、そこそこの売上になってきました。会社が大きくなってくると、ベンチャーキャピタルさんや金融機関さんが来てくれて、出資するから上場しないかといったお話もいただきました。
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このときは、頑なに「1%も他人の資本は入れないぞ、すべて俺の会社だ」と考えていました(笑)。ある意味ではワンマン的な感じでしたが、会社に残ったお金は社業の発展のために使おうと決めていました。営業代行の領域はかなり広いため、営業課題を抱える顧客には、たとえばインターネットも必要になるし、パンフレット制作も必要になる。そういった制作会社や顧客との接待で使える飲食店などを自分たちで作ろう、もしくはM&Aしようという発想になっていきました。
 
思い返せば、25歳当時、あがった収益を元にクライアントと一緒にジョイントベンチャーしたり、M&Aしたりしたことがグループ経営の原体験でした。あくまでも本業とシナジーのある会社を、資本比率が不利にならないように気をつけながら、当時12社くらいにファイナンス的な支援をしていました。事業再生やインキュベーションのようなこともやってきましたが、それがいままでのグループの略歴になります。
— 短期間での発展ですね。現在はアズ株式会社が母体で、何社くらいのグループですか。
いまでは30社近くあると思います。あえて我々が資本を持たないで別名義で持っているところもあり、資本関係は複雑になっています。子会社が孫的に持っていたり、私の資産管理の会社だったりします。
 
ただ、これまで経営権を維持できる資本比率を前提にしていたのですが、30歳になって「これでは、あまり意味がない」と思い始めてきました。資本管理しても相手がやめてしまったら意味がないし、逆に資本を入れないで助けた会社であっても良好な関係であれば、グループ会社以上に協力してくれるものです。そのため、いまは資本に縛られないほうがよいという結論に変わっています。
 
30社くらいの経営権を持っていたとしても、ほとんど口も出さないし、「もし、株を買い戻したいならいいよ」とも言っています(笑)。このことは、私が現在もっとも関心がある「レジリエンス経営」のポイントでもありますが、契約関係や資本関係に縛られないで、自然発生的に助け合えるコミュニティを目指しています。インソーシングでもアウトソーシングでもない、コ・ソーシング経営ですね。
— ちょうどレジリエンス経営の話になりましたが、私も興味があるため、ぜひ伺いたいです。
レジリエンスとは、元の意味は「復元力」や「強靭さ」、「しなやかな強さ」といった心理学用語です。このレジリエンス性を高めることが人や組織にとって重要だという概念があり、日本も国を挙げて、「ナショナル・レジリエンス」という国土強靭化計画を掲げ、国策にし始めています。
 
これは、東日本大震災や熊本地震のような規模の災害が起きたときに、力強く復旧できる仕組みが必要であるという考え方ですが、ビジネス上にも通じることだと思います。 

たまたま知り合った大学の教授が、一般社団法人レジリエンスジャパン推進協議会の事務局長をされていたのです。初めてお会いしたときに、このコンセプトはとても興味深いと感じました。BCP(ビジネス・コンティニュイティ・プラン)やリスクマネジメントとして、ビジネスのバックアッププランをしっかりと作っておきましょうという考え方です。 

しかし、私が考えるレジリエンス経営とは、BCPはもちろん重要ですが、「そもそも自分の会社は何で存在していて、社会に何をしようとしているのか」という理念探求に立ち返ることだと考えています。理念回帰でビジネスのストラクチャーを考え直して、自分で持つ必要がない要素は持たなくてよいし相手に任せるという、他社との緩やかな連携をしながら身軽にしていったほうがよいのではないか、という柔軟な経営を目指す考えです。 

これがまさに、コ・ソーシングだと思っています。緩やかな連帯、自律した甘え、お互いの要素を活かし合いながら、ブレない軸と柔軟性を維持すべきであるということです。会社として大事にしている理念や価値観はブレてはいけない軸で、それを実現させるための手段はブレてもよい柔軟性が必要です。その両輪を併せ持つことが、レジリエンス経営です。

経営資源でも、ヒト、モノ、カネという代替が利くものを重要視するのではなく、価値観やブランドこそがブレてはいけないものですよね。ある意味で、レジリエンス性の追求はブランドアイデンティティの構築につながってくるわけです。
 
現在は、レジリエンス経営のワーキンググループを立ち上げて、その定義を行っているところですが、今後レジリエンス認証が国策として始まる背景を受けて、コンサルティングファームや、私が教員を務める武蔵野学院大学において研究所の設立なども視野に入れています。
 
アウトソーシングは、経営プロセスが10あるとしたら、そのうちの1つか2つを代行する話ですが、コ・ソーシングはもう少し概念性が広いのです。プロセス全部を一緒にやろうという補完し合う関係です。わが社が営業代行でやってきたことのように、「あなたに稼いでもらいたいから、成果に向けてこのプロセスをやります」という考え方です。分担が上下(垂直)ではなくて、左右(並行)になっているのです。

リスク=挑戦であり、その積み重ねが人生

— 最後に、松田社長にとっての挑戦とは。
挑戦とは、人生ですね。とりあえず何にでも挑戦してしまう性質なので、まさに人生そのものですよね(笑)。これまでも挑戦の連続ですし、これからもそうだと思います。挑戦は自分の枠を広げてくれます。1冊目の本を出したときに「上場会社の社長にコンサルはできるけれども、代議士にアドバイスはできない」と書いたのですが、いまでは代議士さんにもアドバイスできるところまで来ています。それは、挑戦して枠が広がったということですよね。
 
挑戦とは、知らない世界に旅に出て学ぶようなもので、知識や経験が積み重なり、新しいことができるようになって、また素晴らしい人と出会って成長していくことだと思います。
 
よくリスクと挑戦は対の概念で語られますが、私はイコールだと思っていて、リスクは危険性ではなく不確実性だと思っています。不確実性とは、0が10になったり-10になったりするような20の運動量のことです。不確実性と確実性の道があったら、不確実性の道を歩いたほうがよいと思っています。なぜならば、わからないことがわかるようになるからです。
 
リスクは取れば取るほど経験が豊かな蓄積となってくれますから、私は常にどちらがリスクが高いかという基準で意思決定していて、必ずリスクの高いほうを選びます。「これが達成できたら強くなるだろうな」と期待しているのです。リスク=挑戦であり、その積み重ねが人生ですね。
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目からウロコ
松田社長は、尖った挑戦的な側面と、柔軟な人当たりの良さの側面をバランスよく兼ね備えた経営者だと感じた。このシリーズではこれまでに、ライブドア買収前の堀江貴文社長や最年少東証一部上場の村上太一社長にもご登場いただいたが、双方の良さを持ち合わせているのが松田さんの強みである。若手経営者でありながらも、すでに多彩な経験をしていることも、強みにつなげている。
 
今回はビジネスの話もさることながら、キャリアの話がとても興味深く、もっと誌面があれば書きたいことはいくらでもあった。高校を中退しながらもフリーターとしての社会人経験をするだけでなく、東京で1人暮らしを経験したり、大検に合格してアメリカに行ったり、多様な人たちと付き合いながらも独学で受験勉強をして、結局は現役で早稲田大学に合格している。
 
起業をするための準備という明確なビジョンを持って大学に進学し、在学中に経営者としての経験も積み、目的どおりに起業に成功する。25歳で5,000万円の利益を生み出すまで会社を成長させて、さらに他社への出資や経営支援を行うことで、30社ほどの会社の経営にかかわっている。20代でこれだけの成果を出すに至ったことは特筆すべきだ。
 
現在はレジリエンス経営という新たな経営論の立ち上げに注力して、次の展開を目指している。まさに挑戦者の真骨頂であるが、自らの可能性を広げる挑戦を続けながら、どのような経営者に進化していくのか、大いに注目したい。
(原 正紀)

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