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女子大生でクラブのママ、そして事業家へ。
銀座の文化継承を目指す経営者。

株式会社白坂企画 代表取締役

白坂 亜紀さん

大分県竹田市の滝廉太郎の旧宅に生まれ育ち、封建的な風土で育つが、親族を説得して東京の早稲田大学に進学する。女性でも男性同様に活躍できる仕事を求め、知人の紹介で勤めた日本橋の老舗クラブで、その世界を見つける。女子大生ながらも本格的にクラブで勤め、頭角を現してママを任されるようになる。卒業後クラブに就職して、銀座に進出。そこでもトップのホステスになり29歳で2店舗のオーナーママとなる。バブル崩壊、金融バブル、リーマンショック、大震災などの荒波を乗り越え4店舗の経営者に。銀座の振興活動でも活躍し、文化の継承を目指す経営者に話を聞いた。
Profile
大分県竹田市出身。早稲田大学第一文学部在学中に日本橋の老舗クラブで女子大生ママとなる。96年に独立して銀座でクラブ2店舗を開業し、多くのマスコミに取材される。その後Barと和食店を開業し4店舗の経営者に。GSK(銀座社交料飲協会)の理事を務め活躍。2人の子を持つ母親として主婦業もこなす。

— 白坂さんとは同じ早稲田大学出身ということで、会合で興味深いお話をお聞かせいただきましたね。その時のテーマは「男の品格」で、襟を正して聞きました(笑)。最近は学校などでも講演をされるとか。どのようなお話が多いのですか。
銀座でママやホステスをしてきた経験から得たこと、事業を続けて来て学んだこと、いろいろな方々との出会いを通して身に付いたこと、などをお話しています。マナーや服装、会話についてとか、接待のやり方やお酒の飲み方など、なるべく具体的に役立つような話をしています。

この商売をやってきて強く感じるのは、夜の社交場である銀座での過ごし方が変わってきていることです。遊び方を知らない若い人が増えましたね。以前は上司が部下を連れて来て教え込んだのですが、今は交際費が減っているので、そんな機会もなくなり継承されなくなったようです。

クラブはフランクにビジネスについて話せる社交場として、いろいろな商談や取引が成立する場でもあったのです。私たちはそれをサポートする役割で、皆さんが気持ちよく過ごしていただけるように、気を配っていました。最近は接待のやり方が判らないからと、あわてて聞きに来る人も多いですね。
— 確かにクラブのイメージはそうですね。マナーや会話はどのように崩れているのですか。
服装からしておかしくなっています。ノーネクタイ、ノージャケットが当たり前になってしまいました。ゴルフ場でもジャケットが当たり前だったのですが、崩れていますね。その他大声で騒いだし、女の子にからんだり、店全体のムードを壊してしまう人が増えているようです。

これまでは周りに気を使って騒ぐのを控えていたものですが、今は自分たちさえよければいい風潮があるのでしょうか。私はそういう時は注意するようにしていますが、できない人も多いようですね。そういうことを伝えるのも、クラブのママの役割だと思っています。

今は銀座のクラブも多くがキャバクラになってしまいました。キャバクラの経営を取り上げた本が流行ったりしましたが、確かに経営は簡単で儲けやすいのかもしれません。クラブを堅苦しく感じて、キャバクラが楽しいという対比の構図はあるかもしれませんが、あくまでもクラブというしっかりした世界観があったからです。

クラブでは女の子に接待の作法をしっかりと教育しますが、キャバクラはしませんね。それからクラブは一見さんお断りなので、お客様も名刺を出してくれます。キャバクラで名刺を出す人はいないでしょう。mixiがキャバクラで、Facebookがクラブという感じですね(笑)。

企業から研修を頼まれることもあり、スマートな接待について話したりします。接待上手な人は事前に予約して、どんな人を連れてくるかを教えてくれます。そうするとこちらも事前に情報収集できますし、上手に接客できます。接待はお客様とお店の共同作業です。これは日本流のビジネス文化といってもいいのではないでしょうか。
— 交際費も削減されて、接待という文化は減ってきています。効率を追いかけると、どうしてもそういう文化は損なわれますね。
日本のビジネスにおいて、接待という文化は必要だと思うんです。海外にはホームパーティという習慣がありますよね。そこで胸襟開いて話し合い、うち解け合うことができるんです。でも日本にはそれがありません。私たちはホームパーティの代わりのつもりです。奥さんと娘さんたちの代わりですね(笑)。

そういう文化を無くさないように頑張っていきたいですね。今では銀座で本格的なクラブといえるところは、数軒しかないのでは。銀座のクラブで接待するのは一流ビジネスマンの証であり、そこからいくつものビジネスが生まれたのです。それが銀座のママとしての、仕事の醍醐味です。
— 白坂さんは大分県の竹田市のご出身ですね。どんなきっかけで東京の大学に進学したのですか。
竹田市に限らないでしょうが当時の田舎はとても封建的で、女は目立ってはいけないという不文律があり、押さえられてうつうつとした気持ちでしたね。クラス委員長になったときなど、父親から叱られたくらいです(笑)。

私が生まれ育ったのは、滝廉太郎の旧宅です。今では滝廉太郎記念館になっています。その影響か音楽にのめり込んで、音楽学校に行きたかったのですが、お金がかかると反対されました。竹田から出たかったので、大学進学で東京に行くといったら、父親からは「早稲田くらいに合格するなら」といわれ、頑張って勉強して合格しました。
でも今度は親戚中から反対されます。その時に母親が「私が行かせる」と周囲を説得してくれて、東京に行くことができたのです。田舎では女性が働くことが当たり前だったのですが、東京は専業主婦が多く驚いたものです。将来のことを考えてマスコミなどを調べてみましたが、結婚して子育てしながら活躍している女性が少ないことを知りました。

そんな時に友人の親戚が経営していた店を、好奇心から手伝うことがあり、クラブの世界を知りました。経営者も従業員もみんな女性で、男性は下働きという男女逆転の世界です。しかもオーナーは子供を育てながらママをやっており、自分で店をやればそういうこともできると、とてもキラキラ輝いて見えたのです。
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ー エネルギーを押さえつけられてきたので、クラブという女性主役の世界にはまったのでしょうか。当時は男女雇用機会均等法ができた頃ですね。
でも実態は全然均等ではなかったですね(笑)。私自身がこの世界に対してひらめいただけでなく、オーナーママからも「あなたにはこの道が合っている」といわれました。そこは日本橋の老舗クラブだったのですが、オーナーも引退を考えていたらしく、まだ学生だった私に対して、ママになるための教育をしてくれました。

就職活動もして、出版社など面接でいいところまで行きましたが、ホステスが面白くなっており悩みましたね。お客さまたちも応援してくれて、教育実習で2週間の店を休んだ時など、ママやお客様から文句を言われましたくらいです(笑)。大学4年生でチーママになり、結局そのまま新卒でクラブに就職しました。

その後ママになり、数年間雇われママをやり、ほとんど完璧な店に育てました。そうすると自分として取り組むべきテーマがなくなり、日本橋を卒業して銀座に行くことにします。当時の銀座は飲食業の世界では、メジャーリーグのような存在です。その時はちょうどプロ野球の野茂投手が、メジャーリーグに挑戦していた時期でした。

それまで日本で築いた名誉や報酬を捨てて、メジャーに挑戦する姿に感動して、私も挑戦することにしたのです。日本橋では知られたママでしたが銀座では、いちホステスからのスタートです。日本橋でのお客様にも連絡せず、誰の紹介も受けずに自分で探した店に入りました。
ー なんかドラマを見るようですね。早稲田出身の女子大生ママということでは、大変話題になったのでは。それゆえ銀座というメジャーで一からスタートは大変だったでしょう。
銀座では売り上げなどがとても複雑で、お客様は店の女の子の口座に入金するようなシステムでした。そのシステムを覚えるところからのスタートでしたが、連絡しなくても以前のお客さまも来てくれるようになり、すぐにナンバーワンになりました。ずいぶんいじめられたり、お客様の取り合いに巻き込まれたり、やはり銀座のパワーはすごかったですね。

でも日本橋に比べると収入も多く、そういった収入を全部貯金したので、1年で独立して自分の店を持つことができたのです。29歳の時でしたが、雇われるのとオーナーでやるのは大違い。そこからいろいろな苦労も始まります。

自信があったので、最初の店はクラブの一等地である7・8丁目ではなく、あえて5丁目に出しました。でも遠いというお客様が多くて、すぐに2店目を7丁目に出しました。私自身がママとしてお店を仕切るのは完璧にできましたが、複数の店になると次のママを育てなければなりません。その結果、自然とお客様への接客の時間が短くなってしまいます。

客様の中には、経営者として頑張りたい気持を理解してくれず「一軒の店でママをやっていれば十分ではないか、だから応援していたのに」と離れてしまう人が結構いました。やはり女性はそう見られるのかと思いながら頑張りましたが、そこでバブル崩壊も重なってしまいます。

私の人生設計では30歳で結婚して子供をつくるという計画もあり、その通りに31歳、33歳で子供を産みました。それもお客様が去っていくきっかけになります。お店を任せていた人に逃げられたこともあり、2人目の子供を産んだときには、産前産後で1カ月くらいしか休めませんでした。
— バブル崩壊の頃の銀座の様変わりはすさまじかったですね。お店をたたんだところも多かった。その苦境の中でプライベートも充実させ、さらにお店を増やしていったのはすごいですね。
そこから頑張ってお客さんを増やして借金も返したのですが、安定すると新しいことに挑戦したくなるのは私の癖かもしれません(笑)。今度は本格的なBarを始めることにしました。大学の同級生にやりたいという人がいたので、お店を任せました。Barも銀座の誇る文化の一つで、素晴らしお店が何百軒もあります。

Bar が軌道に乗る頃に、時代は金融バブルの時期を迎えます。その頃大事なお客様が、素晴らしい料理人を連れて来て、和食の店をやらないかという話が出てきました。でもそう簡単に銀行が融資してくれないだろうと思ったら、イケイケのノリで貸してくれることになったのです。

ところが1年くらいで雲行きが怪しくなり、銀行から「金返せ」の大合唱が始まります。貸しはがしが社会問題になった頃ですね。ちょっと前まで「中小企業を応援します」という広告を出していた銀行が、「その商品はなくなりましたから返してくれ」と態度を変えて、返済地獄が始まります。私の知人には自殺した人もいたくらいです。

クラブの方が業績好調だったので、毎月数百万という返済をすることができました。でもそんなときに、また雲行きが怪しい感じになります。銀行関係の人たちから悪い噂をいろいろ聞きました。そしてリーマンショックが起こり、好調だったクラブの業績が落ちてきます。
— 厳しい状況の時に大変なピンチですね。どう乗り切ったのですか。
その時の銀行の取り立てはすごかったですね。ひどいところになると、毎日のように自宅にやってきました。「もともと10年計画だから、すぐには返せない」と伝えると、「男から貢いでもらえ」とか「娘を働かせろ」とか、とんでもないことをいい出します。その時は必要な資金を家族や知人などが融通してくれました。

これまで絶体絶命のピンチは何度かありましたが、その都度誰かが助けてくれるんです。私は運がいいのかもしれませんね。でもリーマンショックから立ち直りかけたら今度は大震災。飲食店は大きな打撃を受けましたが、特に銀座が厳しいです。自粛ムードの中で他の地域は復活しても、銀座はまだ下火のようです。
— 確かに銀座で飲むというのは贅沢の代名詞のようなところがありますね。大震災での自粛ムードと節電の影響で、最も苦しい地域でしょう。
銀座には日本の文化が詰まっていると思うんです。クラブは大人の社交場だし、和食やBarの文化もすごいです。和食は他の国にはない技術の宝庫です。だしの取り方、包丁の使い方など細部にわたるこだわりがすごい。もはや芸術の域ですね。

Barについても、知人の外国人などを案内すると驚かれます。店の雰囲気やカクテルの味、接客の態度など、これだけの水準の店が集まっているところは世界のどこにもないそうです。外国のホテルの一流Barくらいの水準なのです。そういう店の集積である銀座は、日本の財産といってもいいのではないでしょうか。

残念ながら和食店も居酒屋化していますし、厳しい修行に耐えられず、技術を継承する料理人も少なくなっています。街頭で呼び込みをする人も増えて、格調の高い銀座のイメージも崩れそうです。お店はクラブ1店でやった方が儲かるのはわかっているのですが、それでも和食店やBarを守っていきたいと思います。
— 銀座の街おこしの活動もされていますね。テレビやメディアでも拝見しました。
GSK(銀座社交料飲協会)という組織の理事を務めさせてもらっています。もう90年近く続いている組織なのですが、ミツバチプロジェクトを応援して銀座でミツバチを育てたり、緑化部を作りビルの屋上で農場を展開したりしています。私は緑化部の部長も務めています。

ミツバチプロジェクトは世界中から注目されており、アジアやヨーロッパから取材に来たり、ロシアに呼ばれて行ってきたりしています。最初は銀座の旦那衆が面白がって養蜂を始めたのがスタートですが、世界中でミツバチがいなくなっている中で、銀座でミツバチが飛んでいることが注目されているようです。

ミツバチプロジェクトの方からは「女王蜂になってください」と誘われました(笑)。昼間はゴルフくらいしかしない銀座のママたちも、最近は参加してくれています。緑化部では銀座を里山にしたいという計画を持っており、ビルの屋上の農場で各地の産品を栽培しています。新潟県の黒崎茶豆や、カボスやスダチなども作っています。

福島県の菜の花なども栽培しています。震災の復興に少しでもお役にたてればうれしいですね。地域の生産者と銀座が結びつくことで、食文化の発展につながればと思っています。銀座の一流の料理人と地域の優れた食材がつながると、新たな一品が生まれるのです。

茨城県の事業で銀座などの料理人を招待して、地元食材で料理を作るベントもありました。筑波の軍鶏など、料理人が評価する食材も多かったですね。大きなシジミもあったのですが、地元ではバター焼きやみそ汁くらいにしか使っていなかったものを、茶碗蒸しなどで使いました。銀座里山計画はまだまだこれからですが、人間関係では里山のようになってきています。
— 最後に白坂さんにとっての挑戦とは。
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私の店やGSK活動で、銀座が活気づけばいいですね。文化を愛する人が集まる銀座であってほしいと思います。営業にも力を入れましたが、単独のお店で頑張っても知れています。女の子の営業で集めたお客様は、やがて離れていくでしょう。銀座を大事にしてくれるお客さまを、銀座全体の魅力で惹きつけなくてはだめなんです。

まだまだ苦しい状態は続くでしょうが、それだけに夢を持ってやっていきたい。私たちはバブル世代で、若い頃はずいぶん遊んだし、消費もしてきました。だからエネルギーがあるんです。バブルの恩恵を受けた世代が発想も広げ、消費も引っ張らなければと思い、多くのことに取り組んでいます。それが私の挑戦ですね。
目からウロコ
バブル崩壊以来、中小のみならず多くの大企業が経営破たんして、GDPは中国に抜かれ3位転落、デフレ経済での価格破壊・・・。企業は経営効率を高めるために交際費などの経費削減に走る強い逆風の中で、クラブという業態で生き残っていくことの難度の高さは、容易に想像できる。時代の変化に合わせてほどほどの品質で安めに、というキャバクラのような道を選ぶことは簡単だろうが、白坂さんは従来のスタイルにこだわり妥協しない。それは自己の利益だけでなく、まさに頻繁にコメントにも出たように「銀座の文化を守る」という戦いを選んだからだろう。私も若いころ勤めていた会社が銀座にあったので、その地域が持つ魅力は、確かに他の地域とは全く違うと感じていた。昼はブランド店や老舗店の買い物客でにぎわい、夜は接待やプライベートで多くのビジネスマンなどでにぎわう。一流の店には有力者が集い、そこに行くことが一流の証のような認識があった。それは確かにひとつの文化といえる。そんな場で根を張ってきた白坂さんだからこそ、文化を守る戦いに挑むのだろう。自らの店を繁盛させるだけでなく、銀座という街全体を活性化するために、協会の理事や社会活動にも積極的に取り組む。多くの経営者は苦しい環境でも文化を守る気概と持ち、地域活動に取り組むその姿勢を参考にするべきだ。そのような活動が最終的に自らの事業を発展させ、文化の継承というビジョンを達成するための原動力になるはずだから。
(原 正紀)

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