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エンターテイメント経営を目指す
沖縄のミュージシャン&事業家

「りんけんバンド」リーダー/株式会社アジマァ 代表取締役

照屋 林賢さん

Profile
1949年沖縄県生まれ。祖父・父ともに沖縄で有名な音楽家であり、実家は三線・レコード店という、音楽と商売に囲まれた環境に育つ。高校卒業後に音楽理論を勉強するために上京し、バンドマンとしての音楽生活を開始。沖縄に戻り、1977年にりんけんバンドを結成。1990年、CD「ありがとう」で全国デビューし、日本レコード大賞「特別賞」受賞。沖縄固有のリズムと言葉にこだわりながらも、さまざまなエッセンスを取り入れ、「りんけんサウンド」の創造を続けている。事業家としても、1994年に株式会社アジマァ(沖縄方言で「交わるところ」の意)を設立し、音楽レーベルをはじめ、スタジオ、ライブハウス、レストラン、ホテルを運営するほか、アーティストのプロデュースや映画監督など多方面で活躍。IT・マルチメディア交流のための組織「North Valley Okinawa」の運営や音楽教育にも注力している。
HARA'S BEFORE
沖縄―私自身も同地に会社を設立していることもあって、地域にオンリーワンの魅力を感じている。人口も観光客も増加を続け、経済は発展している反面、沖縄らしさが失われていると感じることもある。

ミュージシャンの照屋林賢さんは、音楽はもちろんのこと、事業家としても、発展し続ける観光地・北谷をベースに、エンターテイメントを中核とした施設運営や活動を行っている。これだけ地域や文化を強く感じさせる事業家はなかなかいない。音楽と経営の融合から何が生まれるのだろうか。

沖縄音楽からビジネスに出会うまで

原:今日は音楽の話、ビジネスの話、沖縄の話、いろいろお聞かせください。多彩な活動をしておられますね。
照屋:「りんけんバンド」をつくったのが、私の本格的な活動のスタートです。初めのうちはなかなか売れなかったのですが、オリオンビールのCMでオリジナル曲の「ありがとう」が採用され、ようやく売れるようになっていきました。祖父の照屋林山も、父の照屋林助も、沖縄では知られたミュージシャンだったので、自分もその道に進んだほうが手っ取り早いのではと思っていました(笑)。
  
音楽の道は、常に難しさの連続です。沖縄は商圏が狭いので、本土に出ることがミュージシャンにとっての成功の秘訣だと思っていました。なかなか売れなくて挫折しかけたこともあります。そうやって、もがいているうちに、僕らはやはり沖縄音楽で、半径5メートル以内にいる人たち、つまり、近寄ってきてくれた人たちに喜んでもらえばいいじゃないかと開き直るようになりました。
原:音楽活動をスタートしたのは何歳くらいの頃ですか。
照屋:デビューは高校生の時でした。実家の照屋楽器店で、レーベルを作ったり、レコーディングの手伝いをしたり、アレンジャーとして過ごたりしながら、音楽の道に進んでいきました。当時はバンドマンが大勢いたので、多くの曲をアレンジしていましたが、自分が知らないことはたくさんある、これではダメだから勉強しようと東京に出ていったんです。父には大反対されましたが(笑)。父が出演するテレビ番組の手伝いや、ギターの伴奏をしていましたが、才能や知識が沖縄の中で終わってしまう気がして嫌でした。それも東京に出た理由の一つです。

結局、音楽学校はフェードアウトするように辞めてしまったのですが、東京ではいろいろといい経験をしました。作曲家への夢を持ったのもこの頃です。アマチュアが作詞作曲した作品を、プロの歌手が歌うNHKの「あなたのメロディー」という番組に応募して受かったこともあります。ただ、東京では自分のやりたいことが思うようにできないと感じて、沖縄に戻りました。25歳の頃です。
原:沖縄で音楽活動をリスタートされたんですね。
照屋:食べていくために、CMソングを作っていました。民謡歌手の曲のアレンジやベース伴奏もやっていましたが、それだけでは収入も少なく、将来も見えない。そこで、バンドを作ろうと決めました。それが、「りんけんバンド」です。ヤマハの「ポプコン」などに出て、沖縄大会で3回優勝しました。関西四国大会に出場したときは銅メダルも取りました。しかし、そこからが全然ダメな成績で、自分に合ってないかもなと思っていました。そんなこともあって、沖縄で半径5メートルの中の人に喜んでもらおうという姿勢になっていったのです。
  
でも、海外には目を向けていました。グループサウンズ「ザ・ランチャーズ」のメンバーだった喜多嶋修さんがりんけんバンドの曲を聴いて、ロスでデビューをしようと言ってくださいました。結局、歌は英語で歌おうと言われ、ロスデビューは諦めました。  

その後、レコード会社のWAVEと出会いました。WAVEは、当時、六本木に8階建てのビルを構えていて、映画館やレコーディングスタジオ、CD・レコードショップがあるなど、ビル全体が音楽とカルチャーの拠点になっていて、僕らも店頭ライブをやらせてもらいました。そこから僕はビジネスに目覚め、音楽はもっとビジネスになると思ったんです。

レストラン経営で商売の難しさを知る

原:それで立ち上げたのが、株式会社アジマァですよね。アジマァとは、沖縄方言で「交わるところ」という意味だと伺いました。ライブハウスやレコーディングスタジオの運営、音楽レーベルの創設、アーティストのプロデュースなどを手がけていかれます。
照屋:りんけんバンドがかなり売れてきて、お金が入ってくるようになっていました。高い税金も払わないといけないし、お金の有効活用を考えて、株式会社を作って事業を展開していこうと思ったんです。沖縄中を巡り、北谷で見つけた600坪を超える、海に面した土地を買うことができました。
原:事業を始めようと思われたのは、実家でレコード店の商売をされていた影響もあるでしょうね。
照屋:祖父が音楽活動をしながら始めた店なのですが、父はお金を使うだけでしたね(笑)。商売が下手な人でした。お金や財産などは残してくれませんでしたが、そのかわり、僕に音楽の才能を与えてくれました。これが一番の強みですし、目に見えない財産だと思ってます。目に見える財産は頑張れば作れるけど、才能や思想など目に見えない財産は作れませんからね。その部分では父に感謝しています。音楽以外のビジネスも考えましたが、常に音楽が土台にあることは忘れません。音楽をやるためにビジネスをやっているんです。
原:レストランの経営も始められますね。
照屋:スタジオとライブハウスは人気が高くて、19時スタートのライブに「前の席を取りたい」と12時から待ってくれる人がいるほどでした。その頃にハワイ料理の「プナプナ」というレストランを海辺で始めることにしたんです。店内ではハワイアンミュージックを常にかけ、ルーバー(細長い板を平行に組んだもの)を使ってハワイにいるような外観にしました。1,000円ランチを始めたらすごく人気が出て、1日100名以上のお客さんが来るようになりました。しかし、1,000円ランチを100名の方が食べにきてくれても売上は10万円。繁盛しているように見えても、額としてはこんなものなんです。夜も営業していましたが、売上は少なかった。 
 
収益は赤字に近く、店をどうにか変えようと女房とハワイに買い付けにいきました。ところが、帰りの飛行機で「やっぱりハワイは合わないから沖縄風にしようか」と言い出したところ、女房も同じ考えで、帰ってからすぐに変えました。
しかし、高級沖縄料理店にしたのですが、お客さんが全然入りません。大衆路線に変えた瞬間、お客さんが急に来だして、売上もどんどん伸びました。でも、それもそのうち苦しくなってきて、何をしても毎回お金が足りない。一時的に良くなっても次の月に足りないという状態が続きました。
原:商売は波があるから難しいですよね。
照屋:人気が落ちてきたら、何か別のものをやっていかないと続けていけないですから。とにかく僕は、自由に表現できる「りんけんバンド」という存在を何としても維持したいと思っていました。バンドは人気がなくなれば、解散し人が寄らなくなるのが常ですが、いつでも人が集っているようにするのが当初からの目的で、そのためのビジネスだったんです。売上が落ち込むたびに、どうしようかと悩んでいました。
  
沖縄には「ジンブン」という言葉があります。「知恵」という意味です。「ジンブン スーブ」(知恵で勝負)なんて使い方をするのですが、知恵を使わなければと考えていました。そんなときに祖父から言われてきた、「あせるな、なんくるないさ」という言葉がずっと去来していました。2枚目のアルバムのタイトルを「なんくる」にしたほど好きな言葉だし、この「なんくるないさ」をずっと肝に銘じていました。

沖縄らしい演出ができるホテルを

原:それまでは直感でビジネスをなさっていたのですね。
照屋:「次はこれだ!」といったように、無計画な思いつきでやっていました(笑)。自分を変えないと周りも変わらないと思い、ない知恵を絞り、広い土地の活用方法を考え抜きました。 
 
建設会社20社くらいから「ホテルを一緒に作りましょう」と話をいただいていましたが、一緒に作るといっても、権利はあちらが8割、僕らは2割。これではたまらないと思いました。作ってもらって床を借りるという方法もありましたが、床貸しで返済していくやり方は自分に合わない。どうせやるなら自分でできないかと、土地を200坪売り、そのお金で銀行に借金を返しました。そして建てたのが、この「リンケンズホテル」です。新たに建てるには、ライブハウスもレストランも1年休まないといけなくて、いろいろな方を長期に休ませることになるし、給料も払わないといけない。1年間の工事のはずが、1年ちょっとかかりました。
原:ホテル事業はレストランとはスケールが違いますから、経営的には勝負ですね。
照屋:自分だけでは難しいので、今は副社長で来てもらっているホテル業界のプロ・東恩納盛雄さんに、常に相談しながら進めていました。当初、ホテル経験者を何人か紹介いただいていましたが、私は東恩納さんとやりたいとずっと思っていたので、最終的にうちに来ると決断してくれたことは大きな喜びでした。僕はエンターテイメント性のある、ブランド力の高いホテルを創りたいと思っていて、その考えが彼と一致していたんです。
原:私も泊まりましたが、とても快適でロケーションが際立ったホテルでした。
照屋:沖縄のホテルとしての基本的な考えというものが存在している、と僕は思います。今の沖縄の多くのホテルは、欧州やハワイにあるような建物で、沖縄らしいホテルではありません。沖縄らしい演出ができるエンターテイメント性のあるホテルを目指したい。劇場があり、スタジオがあり、ミュージシャンが宿泊しながらイベントもできるようにしたい。イメージとしては、旅の最中でも楽器を練習できるようにしたい。たとえば、クラシックを習っているお子さんがいるとして、旅行中もホテルの中で練習のできる場所があるといいのではと思います。
原:プロのミュージシャンだけでなく、バンドをやっている子どもたちにもいいホテルということですね。
照屋:みんなで合宿をやって、一つの作品を仕上げるっていいですよね。沖縄は遊ぶだけじゃなく、ものづくりに最適な場所ではないかと思います。特に音楽に関しては、僕らが得意としている部分です。パートナーの東恩納さんもミュージシャンですから。

「音のおもてなし」でアジアに発信

原:IT・マルチメディア交流のための活動として、「North Valley Okinawa」(NVO)も始めたと伺いました。
照屋:月1回だけIT関連のディスカッションをしようと、世界中から参加者を集めて行いました。「講演料は出せませんが、宿泊はできますよ」と呼びかけ、本土と沖縄の関係者が集まって、ITについてディスカッションしたり、講演を聞いたりしています。3年間行い、若い方もたくさん集まりました。アップル創業者のスティーブ・ジョブズ氏の片腕として、さまざまなプロジェクトに関与した比嘉ジェームス氏とは、この活動を通じて知り合いました。当時、彼はリアルネットワークス社日本法人の社長をしていました。そんな彼にNVOを立ち上げたいと話して、連名で立ち上げました。 
 
その後、比嘉さんは、ジョブズ氏からアップル社に呼び戻されました。当時、アメリカ本国でiTunesのサービスが始まったばかりで、あるとき比嘉さんから、「iTunesって知ってるか?」と聞かれたんです。僕はよく知っていたし、「これからはiTunesの時代だよ」と答えたら、契約してほしいと言われました。iTunesには、最初はアメリカのメジャーどころのレコード会社は古い曲しか提供しなかったそうです。新譜をアルバムにして売りたいので、とりあえずインディーズの線でやってみたいとのことでした。
原:日本で初めてiTunesに曲を提供したアーティストは、りんけんさんだったんですね。
照屋:新曲では世界でも最初だったのではと思います。今でも配信は続けています。
原:今後はどのような事業展開を考えていますか。
照屋:沖縄の音楽文化をもっと掘り下げて、モダンな沖縄を表現して伝えていきたいです。時代に合う新しい音楽の要素を取り入れながらも、ルーツである沖縄の文化をベースにアレンジしていきます。これまでも行ってきたことですが、その基本は変わりません。事業でもそれを意識していきます。

ホテルやレストランも同じようにエンターテイメント性を重視して展開していて、社員向けにもエンターテイメント研修などを行っています。一人一人がステージに立っているような意識で、お客様に楽しんでもらえるよう心がけていくことです。ライブと同様に、レストランで食事をする人、ホテルで宿泊する人、そういう人たちにも日常を離れたエンターテイメントを楽しんでいただきたいということです。
  
ミュージシャンやアクターは、ステージの上に立つと多くのお客様から見られます。それを意識したパフォーマンスをするから、多くの方々に楽しんでいただけるんです。お金をいただいている以上、その意識をみんなが持つべきです。併せて施設の設備も、お客様に楽しんでいただける工夫を凝らしていきます。私たちのやっている事業は、すべてエンターテイメントを意識して展開していきます。
原:これから実現したいことについて教えてください。
照屋:音楽家としては、ライブハウス「カラハーイ」で私が教えているアーティストたちが、将来は独り立ちできるように育てていくことです。みんな音楽が好きなので、何とか仕事としてやっていけるようにしたいですね。それがリンケンズホテルやカラハーイの事業展開の応援隊にもつながるでしょう。事業は応援してくれる人がいてこそ、成功するものだと思います。  

沖縄では琉球王国時代に、武力ではなく儀礼と徳を大切にして外交を行い、芸能を用いて来賓をもてなした歴史があります。地理的な特異性から、外から入って来るものを受け入れる民族性があり、特に良いものは進化・発展させる多種多様な融合文化が育まれてきました。そうした文化にならって、沖縄らしい事業を創り上げていきたい。リンケンズホテルは全国でも珍しい「音のおもてなし」をキーワードにして、新たなホテルスタイルを提案していきます。近隣アジアをはじめ世界に発信できるような企業にしたいですね。
HARA'S AFTER
私自身、何度も観たが、りんけんバンドのライブは、楽しく、多様で、沖縄文化を感じさせる素敵なステージだ。家族で楽しめるファミリーミュージックをコンセプトに、ウォーターフロントのホテルに泊まって、そのまま1階のライブハウスで盛り上がり、併設のレストランで沖縄料理もワンストップで楽しめる。併せて、人気地域・北谷の街並みも堪能できるという、絶好のロケーションを生かしたエンターテイメント空間である。 

しかし、好きな音楽を続けるための経済的な後ろ盾として取り組んだビジネスは、試行錯誤の連続だった。りんけんさんに苦労話は似合わないが、大変さは想像できる。そんな時に祖父から強く勇気づけられたのが、「あきらめるな、なんくるないさ」という言葉。同じ事業家として私も胸に刻みたい。

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