2019‐06Umano13_アース・キッズ_高見様

環境問題に挑み続ける
「元祖・社会起業家」

アース・キッズ株式会社 代表

高見 裕一さん

Profile
1956年、神戸市生まれ。中学卒業後、ヒッチハイクの旅で九州を訪れ、水俣と出会い、環境問題に強く関心を持つ。大学在学中に「関西リサイクル運動市民の会」を設立、全国規模の活動として発展させ、「日本リサイクル運動市民の会」を旗揚げし、日本初のフリーマーケットを開催。1987年、有機野菜の宅配事業「らでぃっしゅぼーや」を設立し、国内最大のオーガニック流通システムに育て上げる。1993年、衆議院議員選挙に立候補して当選し、環境問題やNPOに係る議員立法に奔走。退任後はモンゴル国立人文大学の理事長や、日本ユネスコ協会連盟の理事に就任。現在、アース・キッズ株式会社代表。
HARA'S BEFORE
有機栽培の野菜を宅配でサービスするという画期的なビジネス「らでぃっしゅぼーや」を立ち上げ、経営者として成功してきた高見さんは、衆議院議員も務めるなど多彩な経歴を持っている。現在は、発達に障害を持つ子供たちの療育システムをつくろうと、「アース・キッズ」という会社を経営している。日本における「元祖・社会起業家」と言える人だろう。

私は若者のキャリア支援にも携わってきたことから、高見さんの現在の事業にとても関心がある。社会起業家としての軌跡を含め、尋ねてみた。

子供たちのためのソーシャルベンチャー

原:高見さんの多彩なキャリアのお話を楽しみにしてきました。まずは、現在の事業についてお聞かせください。
高見:私たちアース・キッズは児童発達支援、放課後等デイサービスを主体とした事業体で、発達障害を持つ子供たちの療育が仕事の柱です。  

現在、発達障害児は増え続けています。文部科学省の2012年度の調査では、全国の公立小・中学校の通常学級の子供のうち、6.5%が発達障害児だと報告されています。発達障害とは、自閉症スペクトラム障害(ASD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)の3つの総称です。こうした子供たちを早期に発見して療育することが、今は強く必要とされているんです。  

私たちは「スタジオそら」と称して、都内に10ヵ所、神奈川県に2ヵ所、合計12ヵ所の障害児通所支援施設を開設しています。業界でも一番大きなところは上場して、就労支援をメインに総合的に取り組んでいますが、私どもはあくまでも発達障害児の支援と療育がメインです。私が引き継ぐまではスタジオは3ヵ所でしたが、4年くらいで現在の体制になりました。規模でいえば、業界の中堅どころでしょうか。
原:短期でそこまでのポジションに来られた、強みや特徴を教えてください。
高見:一つは、マンツーマンの療育をしているところですね。そこに魅力を感じてくださる親御さんが多い。マンツーマンで子供の成長に間近に寄り添えるというのは、社員にとってのやりがいにもつながっています。いわゆる預り型の施設の中には、子供たちに映像を3~4時間見せっぱなしにするようなところもあるようです。スタッフも少なく、2人で10人の子供を見る状態だったりします。それに対して、弊社ではマンツーマン、もしくは指導員2人に子供が1人ということもあります。50~90分と時間は短いけれども、子供の成長が確実に実感できるのが重要なポイントです。  
商標登録を取っている「あおぞら療育」のような魅力的なコンテンツがあることも強みでしょう。普段は、なかなか自然の中で遊ぶ機会の少ない子供たちが、思いっきり体を動かしながら、四季折々の自然を体験し、のびのびと遊べる機会を作っています。自然に触れることを第一に考え、太陽の陽を浴びたり、風を感じたり、小さな虫や草木に触れることが、子供たちの心を開き育てていくのです。  

スタジオを見ていただければわかりますが、サッカー・水泳・ダンススクールがあったりと、原宿スタジオだけでも7~8種類のコンテンツがあります。子供の興味とやる気を伸ばすような、個性あふれるカリキュラムを持っていることがポイントではないでしょうか。
原:今の事業の課題は何だとお考えですか。
高見:マンツーマンで子供たちを見るには、人は手厚く採用しないといけません。人材確保は常に最優先課題の一つです。とにかく良い人材に出会いたいですね。発達障害への対策として、「早期発見・早期療育」が、今後、国の方針になっていくと思いますが、学校に入る前の未就学児支援を中心とした療育を主体にやっていきたい。  

社内的には、全社員の保育士化を目指しています。「私たちは子供の発達の専門家です」と言える根拠として、保育士という国家資格をしっかり取っておこうと考えています。社員が保育士資格を持っていると、人材の質が評価されて行政から賦与される点数も上がります。それによって収益も変わってきますから。
原:保育士化を進めることにより、スタジオの数も増やしていくのですね。
高見:最低でも年に2ヵ所、可能ならそれ以上増やしていきたい。他の組織とのコラボレーションもいいですね。発達障害の子供は、健常児では想定できないような事故を起こすことがあるんです。当社のブランド「スタジオそら」と「産業技術総合研究所」と共同研究する形で、その「ヒヤリ・ハット」をまとめ、ルール・環境・教育を整備してマニュアルにまとめています。  

「アース・キッズ」という会社名から何となくイメージしていただけるかと思いますが、私たちは発達障害の子供たちのためだけの事業を行っているわけではありません。地球の子供たちのためにできることはないか、できることをやろうという夢をもって創られた会社です。そういう意味ではソーシャルベンチャーだと申し上げています。

日本初のフリーマーケットを開催

原:高見さんの経歴についてもお聞かせください。環境問題と出会ったきっかけは、中学卒業後のヒッチハイクだったそうですね。
高見:15歳の春休みに、生まれて初めてヒッチハイクをやりました。自宅のある神戸の須磨浦海岸あたりから、九州まで旅に出ました。映画「イージーライダー」の影響でヒッチハイクを知り、やってみたわけです。  

日本中を旅しましたが、高校1年生のときに、水俣を初めて訪れました。水俣の峠を歩いて越えた瞬間、えもいえない臭いがしてきたんです。今思えば、窒素工場から出る臭いだったんでしょうね。「これが水俣病の臭いか」と思いました。それから、水俣病について勉強し、現在進行形で起こっていることに驚きました。初めて環境問題を意識したのがこの頃です。  

でも、ただ「環境を守ろう」と言うのは、お題目にしか過ぎません。ある時、『Whole Earth Catalogue』(ホール・アース・カタログ)というアメリカ西海岸の若者たちのライフスタイルをまとめた本でリサイクル運動を見つけました。これだと思い、「リサイクル運動市民の会」を立ち上げたんです。わかりやすく具体的で、誰でも参加でき、共感できるシステムと場を創るために、市民運動にしました。「売ります、買います、あげます」と呼びかけて、電話で不用品情報を受け、情報誌『月刊リサイクルニュース』に載せていく手法です。たとえば、冷蔵庫がほしい方と、いらない冷蔵庫を持っている方の仲介を手数料なしでやっていました。言ってみれば、今のメルカリみたいなものですね。
原:資金はどう工面されたんですか。
高見:1つは、共感してくれた方に会員になっていただき、会費をもらいました。ただ、それだけでは足りないので、月刊リサイクルニュースの年間購読料を頂きました。朝日・毎日・読売新聞の地域版に不用品情報コーナーを設けて、原稿料も頂きました。京阪神から始めたのが、やがて全国に広がっていきました。 
 
あとはフリーマーケットです。アメリカでは「Flea Market」と書きますが、「Free Market」としました。日本で初めてフリーマーケットを開催したのは、僕なんです。現在の東京都庁が立っている場所です。出展者600人、入場者5万人、昭和55年10月12日の出来事でした。
原:「蚤の市」ではなく、「自由の市」にされたのですね。どうやって運営したのですか。
高見:学生が250名くらい集まっていましたね。一種のサークルのノリで、若い連中の梁山泊のような状態でした。不用品のリサイクルをテーマに、規模の大きいものはフリーマーケット、小さいものはガレージセールと分け、これを何百ヵ所と広げました。そして、さらに、もう一歩進めたいと思って始めたのが、有機野菜の宅配事業でした。暮らしの基本は衣食住で、すべての命の源は食にあります。環境問題で一番わかりやすいのは、食べ物に関することなので、そのプロデュースを考えたんです。  

当時の日本の農業は農薬全盛でしたが、その中で0.1%にも満たないような、本物の自然農法で作られた野菜を手に入れる方法はないかと考えました。
生協での共同購入は既に行われていましたが、誰でも参加できるようにしたくて、自然農法で作られた野菜の個別宅配をやろうと思い立ちました。だから、根っこは一つなんです。

環境問題に対する具体的な表現手段がリサイクル運動であり、もう一歩進めたのが食の運動である「らでぃっしゅぼーや」でした。

政治家になったのも環境問題解決のため

原:その後、衆議院議員を務められますね。
高見:「らでぃっしゅぼーや」は事業としては成功しました。会員は10万世帯を超えて、自分の中では十分な達成感がありました。ただ、「世の中の仕組みは、政治を変えないと変わらないと思ったのです。  

僕の先輩に、滋賀県知事や大蔵大臣を務めた武村正義さんがいらっしゃいます。彼が知事の時、琵琶湖条例を作る際に、その応援市民団体として関わりました。合成洗剤が琵琶湖の水に影響を与えているので、合成洗剤の使用、販売、製造を禁止するという革命的な条例でした。ある日、武村さんから、紹介したい人がいるから一緒に会おうとお声がかかり、出かけたら首相も務めた細川護熙さんがいらっしゃいました。そこで2人がかりで、衆議院選挙に出るように説得されたんです(笑)。  

議員になってから関わったことの一つが「公共事業チェック機構」でした。公共事業は国民の税金を使って、政治家と官僚の思うままに環境破壊をしていました。それに対してNOと言える組織がなかった。「公共=善」という風潮がありました。自然破壊が許されていいわけがないし、公共事業にタガをはめたかったんです。同時に、NPO法案を提案しました。NGOは、それまでは日本の法律では、個人商店という扱いでした。Non Profitの人々でも、法人格を取って社会的なポジションを作れるようにしたかったのです。もちろん、どれも、さまざまな方々が加わった中で実現できたことです。
原:政治家になったのも、一貫した思いがあったからということですね。
高見:はい。よく人から「お前、いろいろやってるよな」と言われますが、自分の中では一気通貫しているのです。  

議員を辞めた後は、「日本環境財団」を作って、世界各地の環境問題に取り組みました。そこでの出会いから、モンゴルに足を運んだら、なんというか私のDNAが喜ぶ感覚がありました(笑)。空気感が自分に非常に合っていたんですね。人も食べ物も、気候も風土も、ぴったりと合っていました。なにより、見渡す限りの大平原と星空に、いたく感動しました。この国のためにできることはないかと考え始めて、結果的に国立教育大学で、環境問題の授業をやることになりました。驚いたのは、学生たちがとても熱心だということです。日本の大学でも講義をすることがありますが、比べものにならないくらいのハングリーさ、優秀さが、モンゴルの学生たちにはありました。貧しい国ですから、長さ5cmもないような鉛筆を使って、2時間弱の講義を一生懸命、ノートにとってくれるんです。モンゴル国立人文大学の理事長も引き受けることになり、年の半分はモンゴルにいる状態になりました。
原:そして、発達障害の子供たちの療育という今のお仕事に出会うわけですね。
高見:初めてこの事業を知った時、とてもシンパシーを感じました。知人から経営を引き継ぐ形で始めたのですが、将来伸びる、やりがいがあると感じましたし、自分がやってきた環境問題とも極めて適合する最新の社会課題だと思いました。発達障害の原因は、化学物質や農薬の影響も大きいとも言われます。ただ、原因や有効な手立てはまだ、それほどわかっていません。  

環境と教育に関わるという点で、発達障害の子供たちの療育に取り組むアース・キッズの事業には、これまでの私の活動が凝縮されているのです。何としてもこの事業を伸ばして、これからの社会を背負う子供たちの未来を明るくしていきたいですね。
HARA'S AFTER
高見さんはエネルギーに満ちた多彩なキャリアを持っている。それらの事業すべててで実績をあげる手腕は、尋常なものではない。その基本は環境問題への問題意識で、活動は多様でありながらも軸は1ミリもぶれていない。事業成功のカギは技術やノウハウではなく、信念の強さなのだと改めて感じた。政治家としての高見さんの業績の一つであるNPO法案の成立で、多くの社会起業家たちがこの国で活躍を始めている。先駆者として走り続ける高見さんを、私も見習いたいものだ。

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