2018‐01経営者176_沖縄バスケットボール_木村様

沖縄で初のプロバスケットボールチームを設立

スポーツビジネスで結果を出し続ける挑戦者

沖縄バスケットボール株式会社 代表取締役社長

木村 達郎さん

中学時代からバスケットボールに魅せられ、スポーツの世界で働くことを志す。テレビのスポーツ番組制作会社を経て、沖縄でプロバスケットボールチーム設立。常勝チームに育て上げ、業績も増収増益を続ける。リーグ合併の変革期を乗り越え、新たなステージに挑戦する経営者に話を聞いた。

Profile
1973年、東京都出身。筑波大学卒業後、米工マーソンカレッジにて修士課程修了。株式会社NHK情報ネットワーク入社、スポーツ映像の制作に携わる。2006年、「琉球ゴールデンキングス」を運営する沖縄バスケットボール株式会社創設、代表取締役社長兼ゼネラルマネージャー就任。球団経営からチーム運営までを行う。
— 沖縄で、ゼロの状態からプロバスケットボールチームをつくられました。どのような経緯で設立に至ったのですか。
私がバスケットボールを始めたのは、中学生の時からでした。高校は都立の進学校でしたが、勉強はまったくせず、バスケットボールに明け暮れる毎日でした。都大会では、私立の強豪校と優勝を争い、ベスト4に進出しました。
 
大学進学後も、バスケットボールを続けました。ただ、のめり込めばのめり込むほど、日本ではバスケットボールの存在感が小さいことを落胆していったんです。
 
そこで、将来はバスケットボールの指導者を目指そうと、アメリカ東海岸ボストンにあるエマーソンカレッジという大学院に留学しました。意識していたのはメディアです。研究課題は「メディアとスポーツの共存関係」でした。
 
アメリカ滞在中には生活費を削り、NBAのチケットを購入して、試合を見に行っていました。2万人近いファンを収容するアリーナでは、単なる競技としてのバスケットではなく、一流のエンターテイメントが行われていたんです。この時の体験は、琉球ゴールデンキングス(以下、キングス)を運営するうえで大いに役立ったと思います。
 
3年間の留学を終えて就職先に選んだのは、NHK関連のスポーツ中継番組の大半を制作している、株式会社NHK情報ネットワークのスポーツ制作部でした。入社直後から国内の実業団リーグ等だけでなく、アメリカのNBAの放送などバスケットボールにかかわりました。
 
好きなスポーツで仕事ができるのは嬉しかったのですが、一方で自分が主体となって仕事にかかわらなくて本当に満足できるのか、自信が持てませんでした。徐々に無力感と閉塞感に悩まされるようになった結果、次の当てもないのに無謀にも会社に辞表を提出してしまいます。
 
それが、2002年のソルトレーク冬季オリンピックが終わった頃でした。

沖縄には潜在的な可能性がある

— つまり、「プロバスケットボールチームをつくる」という目標が、最初からあったわけではないのですね。
後に、キングスを運営するパートナーとなるIT会社の経営者であった友人から、発足したばかりのbjリーグの試合観戦に誘われたんです。でも、その時は特に興味は持てませんでした。
 
ただ、熱心に誘われたので渋々行ったところ、それまでの国内バスケットボールのイメージとは違って、かなり華やかでプロらしさを感じました。お世辞にも試合の質は高くはありませんでしたが、好感を持ちました。
 
すると、帰りにその友人から「自分たちでプロチームをつくらないか」といわれます。一瞬、耳を疑いましたが、ある程度の採算を見込んでいるようでした。友人は、当時のbjリーグは参入チームを募集しており、年間2億円で運営できるというところまで調べていました。
 
何だか騙されて、試合に連れてこられたのではないのか……と思いつつ(笑)、何となく面白いことが始まりそうな予感がしました。いろいろと調べるうちにチャレンジ精神が、躊躇する気持ちを上回るようになり、本気で取り組もうと決意します。
候補地は最終的に神奈川、福岡、沖縄のいずれかということになりました。慎重に考えるパートナーに対して、私は沖縄が良いと確信していました。なぜなら、沖縄出身のバスケットボーラーには魅力的な選手が多く、サッカーでいえば南米の選手のような躍動感を感じていたからです。バスケットボール自体も盛んに行われていますし、地元のチームを熱狂的に応援する土地柄でもあります。
 
リサーチを重ねた結果、データ的には沖縄は良くも悪くも特徴的でした。「人口の表面的な数値以上の可能性がある」、「バスケットボールの普及率は驚異的に高い」、「経済情勢は非常に厳しい」といった傾向がありました。
 
そこで、沖縄には潜在的な可能性があると判断して、本拠地とすることに決めたのです。

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プロチーム誕生に感動より緊張感を覚えた

ー 直感を信じた形ですが、その後の展開から見ると正解でしたね。
しかし、最初はどこから手を付けていいか、見当もつきませんでした。思い悩んでbjリーグのコミッショナーに相談したり、知り合いのつてを頼んで多くの人に会ったりしました。
 
沖縄では、県内出身者を「ウチナンチュー」、内地出身者を「ナイチャー」と呼んで区別しています。まず、見ず知らずの土地に入り込んでいくことから苦労しました。
 
よく聞かれたのは、「沖縄出身でもない人が、なぜ、そこまで沖縄のために頑張るのか」ということです。飲み会で「沖縄に骨を埋めるつもりがあるのか」と聞かれたこともありました。でも、出身地など関係なく、「沖縄のために頑張りたい」という気持ちに、迷いはありませんでした。
 
地道に活動を積み重ね、多くの方々の協力を得て、bjリーグに正式に参入を申し込みました。認可を得るために、仲間を増やし「沖縄にプロバスケを!」事務局を発足しました。取り組みとしては、バスケットボールを使ったポスターを制作して、その前で自由に写真を撮ってもらうという新たな署名活動なども展開しました。
 
ところが、「チーム運営資金が十分ではない」との理由で、継続審議という判断を下されます。この時は、とても苦しかったですね。酒を飲んでも寝つけない日々が続きました。
 
新規参入を何としても勝ち取りたいと、「今回認められなかったら活動を継続しない」と宣言して、その趣旨をbjリーグにも伝えました。個人資産をすべて投げ売ってでも必要な資金は調達するという熱意を示したところ、2006年10月、参入の認可を勝ち取ることができたんです。
 
その時は、朝日新聞のスクープで、「沖縄プロバスケット参入決定!」という記事も出ました。それを目にした時は、感動というより、「これからが本当に大変だ」という緊張感を覚えましたね。
— 初めてのプロスポーツの経営は、どういったスタートでしたか。
まずは、チームの名称を決めることから始めました。末永く愛されるチームになるためには、命名する過程は県民と共有すべきだと思い、3つの候補からインターネットなどで投票を募ってチーム名を決めることにしました。
 
その結果として選ばれたのが、「琉球ゴールデンキングス」です。チーム名には、かつての琉球王国に由来し、「リーグでもキングになってほしい」という願いが込められています。
 
さらに、大きな仕掛けも考えました。リーグ戦参加に先がけて、沖縄でbjリーグのオールスターゲームを開催することでした。怒涛の準備を経て、何とか実施にまで漕ぎつけました。2007年1月の試合当日、宜野湾市立体育館は3,223人の観客で埋まる超満員となりました。
 
スリーポイントやダンクシュートのコンテストも行い、エンターテイメントも披露したので、「bjリーグって面白いんですね」という感想が聞かれました。400万円の赤字となりましたが、琉球銀行からのそれを上回る出資も決まりました。
 
弾みをつけて、2007年秋から初シーズンに突入しました。「急増チームだけれど、特長ある選手を集めることができた。プレーオフは目指せるのではないだろうか」という淡い期待を抱いてのスタートでした。
 
開幕戦の会場は沖縄で、大分ヒートデビルズとの試合でした。チケットの販売状況は芳しくなく、当日券の窓口では「えっ?お金がいるの?」といったやりとりもあったようです(笑)。
 
プロスポーツが根づいていなかった土地に、プロ球団を設立する難しさをリアルに感じましたね。待ちに待った試合でしたが、その時の私は自分でも驚くほど冷静でした。
 
開幕初戦は落としたものの、その後、連勝して2勝1敗で乗り切りました。ただ、中身が伴わない勝利に不安も感じていました。ここから坂道を転がるように9連敗を喫します。プレーにも魅力がなく、チケットの売り上げは計画の半分程度にとどまり、業績も伸びず、次第に危機感は募っていきました。
 
資金繰りも心配しなければならず、来る日も来る日も金融機関に通う苦しい時期でした。このままでは倒産するかもしれないと弱気になったこともあります。ヘッドコーチとの口論も増え、チームの信頼関係も崩壊の危機でした。
 
そして、最後の10試合も全敗、屈辱のシーズンは西地区最下位で幕を閉じ、経営者としても空しさを感じていました。
— まさに山あり谷ありですね。そこから、どのように再建していったのですか。
まずは、チームの再編に取り掛かります。私は「新ヘッドコーチの招聘」、「外国人選手の戦力アップ」、「ベテラン選手の獲得」を方針として掲げました。これらの取り組みにより、想定した補強にほぼ成功して、2年目のシーズンを迎えました。捲土重来を期して選手たちには、チームプレーと勝利への執念を繰り返し伝えました。

結果的には、41勝11敗というbjリーグ歴代最高の勝率でシーズンを終えることができました。しかし、プレーオフではリーグ3連覇中の大阪エヴェッサが待ち受けていました。ここで大きなドラマが待っていたのです。

試合は残り8分49秒で、17点差でリードを許していましたが、そこから追い上げて残り31秒でスリーポイントシュートを決めて逆転、そのまま大逆転の勝利を飾ったんです。その勢いで東京アパッチとの決勝戦を制して、ついに歓喜のトロフィーを手にすることができました。

沖縄に帰還するとファンの出迎えをはじめ、マスコミの取材、メディアめぐり、県庁での知事の祝福など、大変な歓迎を受けました。スポーツという枠を超えて、キングスの影響力が急速に広がっていくのを感じましたね。

「優勝おめでとう!」ともいわれましたが、「感動をありがとう!」、「元気をありがとう!」といわれることの方が多く、県民の皆さんはそういうものを求めているのだなと感じました。人が生きていくためには、興奮、感動、勇気、希望、夢といったことが大事で、そういったエネルギーを生み出すことができたのではないかと自負しています。これもスポーツならではの魅力でしょう。

優勝を成し遂げたことで、ファンからもらったエネルギーを何倍にも大きくして返すことができました。当初は想像もしていなかったことです。

われわれは白黒、黒赤の戦いをしている

— 劇的なスタートの後の、これまでの流れを振り返っていかがですか。
創業期があって、安定期があって、最近は変革期があって、現在に至るという感じです。わずか10年余りですが、多様な経験をしました。

創業直後はベンチャー的に夢を追いかけながらも、生き残っていくだけで毎年精いっぱいでした。2年目で優勝して、その翌年に初めて単年度黒字化になったんです。

勝ち負けを「白星・黒星」って、いいますよね。事業的には「黒字・赤字」という話になります。私は「われわれは白黒、黒赤の戦いをしている」と会社の中ではよく話していました(笑)。2年目からは勝てるようになって、それ以来はずっと勝ち越して通算7割近い勝率でしたし、事業的にも黒字で順調に伸びていきました。

資本金1億円程度の会社が3年目ぐらいでお金を全部使い切ってしまい、ようやく雀の涙の100万円ほどで単年度黒字化して累損改善の努力を重ねました。ただ、悪い意味での安定というか、マンネリ状態に陥っている気がしていました。今は売り上げも8億円を超えましたが、成長させようという気になったのはここ2年くらいですかね。

それまで死ぬか生きるかでやってきたのが、安定的な成長というか、大きく伸ばそうと思えなくて……。やはり、スポーツ産業自体がまだまだマイナーで、事業として成立しているとはあまり思われていなかった状況ですから、中途半端な気持ちだったと思います。


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そうした時にbjリーグと実業団が合併して、2016年から「Bリーグ」が発足するという大きな変革が起こってきました。なかなか細部が決まらなかったのを、元Jリーグのチェアマンだった川淵三郎さんが「えいや!」で決めてくれました。だから、Jリーグっぽくなった気がします。

両リーグが合体したことで、1部が18チーム、2部が18チーム、その他のチームに分類されました。入れ替え戦も行われますが、入れ替えの基準としては試合での直接対決だけではなく、事業水準なども見られます。ライセンス制度があって、総合判断で決められるんです。

「0→1、1→2」と続けていくこと

— 業績もその後、増益増収が続いていますね。
1度試合を見に来てくれた人に、試合会場に来る楽しさを体感してもらい、もう1回来ていただけるように努力するというのは、当然のことだと思うんです。「ビジネスとして、時間とお金の戦いを経済市場でしている」という意識を、社員にも理解させるようにしています。

スポーツはエンターテイメントであり、余暇ビジネスなんですよね。だから、「時間と空間を売る」という意識を持つ必要があると思います。勝っているチームの経営がうまくいっているかというと、必ずしもそうでもないことが多い。バスケットボールのファンじゃない人も、「もう一度来よう」と思っていただくことが大事ですね。

「0→1、1→2」という話を、私はよくするんです。「0→1」、つまり、初めて試合に来ていただくのはすごく大変です。しかも、1回目で失望させたらダメですよね。「1→2」と続けていくことが、多くの来場者の獲得につながっていく。

収入としてはチケット、スポンサー、グッズ、飲食、ファンクラブ、放映権などがあり、事業規模に比べて多様な商品をそろえることが必要で、効率が良いとはいえません。ですから、お客さんを増やすことだけに集中してきました。本当にお金がなかったので、選択と集中がしやすかったと思います(笑)。

経営者は頭の中にさまざまな戦略のカードを持っているものですが、大事なのはそのカードを出すタイミングです。タイミングが良かったのは、bjリーグ立ち上げの時期に参加できたことと、変革時期にリーグに参加していて否応なく対応せざるを得なかったことです。

業界のそうした状況が自分の志向に合っていたのも、本当にありがたかった。でも、まだまだ成長しなければいけないという気持ちです。

バスケットを通じて世の中に貢献したい

— 最後に木村さんにとっての挑戦とは。
2020年にアリーナができる予定で、それを機に本格的なスタジアム・ビジネスにしていきたい。スポーツはソフトコンテンツですが、成長発展させようとするとスタジアムというハードが必要になるんです。キャパシティを増やせば、チケットはもちろんグッズ、飲食など、いろいろなものに効いてきます。

私は、もともとバスケットボールが大好きで、この仕事を始めました。自分が好きなもので社会の役に立ったり、人を元気にしたり、経済効果を生み出したりして、それを世の中に必要なものにしていくことは、大きなチャレンジだと思います。バスケットボールに限らず、スポーツを通じて世の中に貢献したい。それが、私にとっての挑戦です。


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目からウロコ
モノからコトへ、消費の対象は大きく変わってきた。スポーツというコンテンツは歴史があり、人々を魅了し続けてきたものである。オリンピックやワールドカップなどは、国境を超えた感動をもたらす。これまで日本では、プロスポーツといえば野球やプロレス、その後、Jリーグが成功したものの、ビジネスとしてスポーツを捉える視点はまだまだ発展途上といえる。

木村さんがバスケットボールへの強い思いから創り上げた琉球ゴールデンキングスは、ビジネスとしても成功しつつある。「0→1」で創出しただけでなく、「1→2→3」と拡大も成し遂げてきた。屈辱の最下位に始まり、2年目での劇的な優勝、3年目からの常勝化、そして、リーグ合併での変革と、多くの壁を乗り越えてきた。その根底にはバスケットへの揺るぎない思いがある。

経営者は自らの事業にのめり込まなければならないが、反面、冷静に自分を見る視点も必要である。スポーツビジネスではファンを引き付けるマーケティング力、独自の世界を生み出すエンターテイメント力、チームを強くするマネジメント力が必要だ。勝つこと(白黒)と儲けること(黒赤)を両立させる、「白黒赤」という捉え方は言い得て妙だと思う。

これからも多くのスポーツビジネスが生まれてくるだろうが、木村さん率いる沖縄バスケットボール社の経営は、多くの組織からベンチマークされるに違いない。
(原 正紀)

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