2019‐03Umano10_金田中_4代目当主_岡副様

東京・銀座の老舗料亭オーナーが目指す“文化継承”経営
花柳界の次の100年に向けて「東をどり」で大きな渦巻きを起こしたい

金田中 4代目当主

岡副 真吾さん

Profile
1961年、東京・銀座を代表する料亭「金田中」の長男として誕生。1983年、慶応義塾大学法学部を卒業後、アメリカのサンディエゴ州立大学系列の英語学校およびアダルトスクールに留学。帰国後、金田中に入社。料理長の下で約3年間、修業時代を過ごす。カウンター割烹の「金田中庵」をはじめ、渋谷に展開する「金田中草」、数寄屋造りの「数寄屋金田中」など、独自の店づくりに取り組む。文化の承継にも注力し、新橋演舞場で行われる「東をどり」(あずまおどり)の責任者としても腕を振るっている。
HARA'S BEFORE
高級料亭「金田中」は銀座の顔であり、花柳界を代表するブランドともいえる。岡副さんは4代目経営者として老舗の良さを維持しながらも、カウンター割烹や数寄屋造りの店など、新たな業態に積極的に挑戦。銀座の料亭や芸者衆を取りまとめる東京新橋組合の頭取も務め、新橋演舞場の経営者として文化の継承にも努めている。老舗のブランドを新時代にどう進化させるか、そのミッションや戦略を聞いてみた。

我々の商いは料理だけではない

原:先日、渋谷のセルリアンタワーの金田中さんに行ってきました。大変おいしかったです。さすが、いいお店ですね。
岡副:ありがとうございます。渋谷はちょっと前までは、若者の街じゃなかった。以前、センター街のふぐ料理屋に連れていかれて、「これが本物のとらふぐだ。でも、勘定はお前な」なんて言われたことがありました(笑)。当時若かった自分でも払えるくらいの値段でしたね。渋谷は安くて、うまいものがある街だったのに、そういう店がどんどんなくなってきたのは残念です。今はまずいものが減っていると同時に、うまいものも減っている気がします。「まずくないものが全盛」の時代ですね。ただし、まずくはないけど血の通っていない食べものが多い。
原:そうした中で、金田中は古き良き日本を守り続けています。
岡副:「料理屋とは何なのか」といつも考えています。料理を出しているから料理屋ではない。料理がまずければ相手にされませんが、料理はあくまでも大事な要素にすぎない。我々の商いとは何かというと、それは電話で予約を受けたときから始まっていると思うのです。 

金田中は日本建築のお店で、有名な建築家に建てていただいています。日本間というのは、本間と次の間があり、次の間には小さな座布団があって、お客さんにちょっと休んでいただき、ある程度、人が集まったら本間へご案内するという流れです。お客さんも体調が悪ければ、食べている料理がおいしいと感じられないこともあるでしょう。そんなときに仲居のちょっとした気配りや、芸者衆のもてなしで、来た時よりも気分が良くなって、「ありがとな。お前のおかげでうまくいったよ」とお客さんに言ってもらえたらと思います。私たちが売っているものはたぶん、いろいろな人たちでつくる空気なんです。朝に店を掃除してくれる方々をふくめ、いろいろな仕事が連なって、その人たちでつくる空気を商っているのでしょう。

家業の温かさに企業のスピード感を加える

原:たしかに、その店ならではの空気を感じさせるところは少ない気がしますね。
岡副:多くの料理屋のプロトタイプといえば、料理自慢の板前さんと、かいがいしく接待する仲居さんが職場で出会い、つきあって所帯を持ち、独立したというケースが多い。最初は何とか頑張って、お客さんに何度も来てもらえるようになり軌道に乗ったところで、店で働く人を増やすかどうするかという問題が出てきます。人を増やす場合も、家族か、近い関係の人たちで運営される。それが料理屋だと思います。 
 
私の場合は、伊勢出身の祖父が縁あって引き継いだ金田中という店の家族として生まれ、長男だったために当たり前のように家を継ぐ流れにありました。祖父が引き受けた店を、父が継いだわけですが、親子の間でも「お互いに負けてなるものか」という空気があったようです。父はよく「いい喧嘩をした」と言っていました。

私が店を受け継いだ時に考えたのは、「金田中は何を目指しているのか」ということです。経営を真剣に考え、「家業の温かさ」を追求したいと思いました。
家業が長く大きくなってくると、そうした温かさからだんだん離れていってしまう。悪気はないのにお客様をないがしろにしてしまう。でも、温かみというのは、こういった商売には不可欠だと思います。 
 
実績のある料亭としてできあがっている中で、弱い部分は何かとも考えました。その結果、企業が持つスピード感が必要だと思いました。家業にプラスして企業の良い部分を取り入れられるのは、図体の大きくない商売だからこそではないでしょうか。
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原:家業だからこその良さというのは、よくわかります。ただ、そこに企業のスピードを取り入れるのは、格式が必要とされる商売だけに難しい面もあるのでは。
岡副:金田中という暖簾は、日本料理の暖簾だと思います。祖父から継いだ後に、父はずいぶんと支店を展開しました。一番大変だったであろうことは、おそらく香港への出店です。昭和39年、前の東京オリンピックがあった年に香港に店を出しました。父がよく自慢していたのは、香港で地域有数のお客さんを相手に商売したことです。父は、国内での展開も積極的でした。昭和28年に銀座並木通りに構えた店舗が最初で、日本旅館があった裏手の土地が売りに出た時には、そこを買い取って新しい店をつくりました。当時の新橋駅は鉄道の起点で、今の東京駅のような立派で大きな駅でした。そこですき焼きを始めたのが、「岡半」です。 
 
そのような状態から僕が受け継いだわけです。仕事を始めるにあたり、父から言われたことがあります。「料理業はお前の仕事だ。俺はこれから新橋演舞場をやるからな」。うちが新橋演舞場の筆頭株主だったので、父は役員をやっていたんです。
原:岡副さんがおいくつの頃のお話ですか。
岡副:大学を出て、1年たった頃です。その時、父に留学を勧められました。普通に暮らせる分の生活費を渡してくれて、「外から日本を見てこい」と言われ、渡米しました。

1年後、祖父が危篤との知らせを受けて帰ってきたのが、父が社長になる頃でした。そして、金田中の調理場が、私の仕事の始まりとなりました。
修業はつらくて、地獄のような日々でした(笑)。その後、お店が火事で焼けてしまうのですが、それまでは隣の駐車場のスロープのところの家に住んでいて、その土地を売って店を再建しました。「見習い料理人兼若旦那」というやつで、体はわりと楽でしたが、精神的にはものすごく揉まれました。
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料理に特化したスタイルはカウンターだった

原:料理の勉強はいかがでしたか。
岡副:3年ほどは調理場オンリーで、4年目くらいに父から曜日ごとに店を指定され、都内を回りました。それぞれの店では料理屋としての数字を学んだり、サービスについて考えたりと、足掛け7年くらいは出入りしていました。今でも折に触れて店に出ていますから、30数年、料理をしていることになります。
原:先代は岡半を中心とした多店舗展開をされましたが、岡副さんが経営を任せられるようになってから、それを踏襲したのか、それともまったく違うことを考えたのでしょうか。
岡副:店を継いだのは、バブルが始まる前の昭和60年頃でした。バブルになったら業績が上がるかと思ったら、普通に良かったという感じでしたね。これがズドンと落ちたときは、いったいどうなっちゃうのかと思ったものです。この業は右肩上がりではないということは、仕事を始めたころから感じていました。

家業の場合、どこからが自分のやり方なのか、その線引きが難しい。親のやり方とは違う意見も持っていたので、20代の頃は大変でした。鍋洗いの小僧が、意を決してプルプル震えながら言うわけです。今までの決まり事がまかり通っている場ですから、良かれと思って言っても通らない。30歳くらいの頃、よく通っていた銀座のバーで、昔の同級生のことを「あいつはいいよな。大きな企業に入ってさ。俺のほうが勉強できたのに」などと、ぼやいてました。そんなときに突然、ハッと気づいたんです。周りの友人からしてみれば、私は高級料理屋の跡取りで、うらやましがられる存在だったのかと。もうこんなバカな時間は過ごさないぞと、考えが変わりました。それから人生の風向きが変わったように思います。
原:「金田中庵」が岡副さんが初めて立ち上げたお店ですよね。どんな狙いで始めたのですか。
自分たちはお客さんのことを本当にわかっているのだろうか。そう考えて、「金田中庵」は店のつくりをカウンターにして、料理人が接客も行うことにしたんです。熱いものを熱いうちに、冷たいものを冷たいうちにと、料理に特化したスタイルを考えたとき、カウンターほどいいスタイルはありませんでした。
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自分たちはお客さんのことを本当にわかっているのだろうか。そう考えて、「金田中庵」は店のつくりをカウンターにして、料理人が接客も行うことにしたんです。熱いものを熱いうちに、冷たいものを冷たいうちにと、料理に特化したスタイルを考えたとき、カウンターほどいいスタイルはありませんでした。

銀座の「脇役」として感謝の気持ちを忘れない

原:ところで、金田中のルーツはどのような業態だったのですか。
岡副:花柳界のことを「三業」とも言います。3つの独立した業、茶屋・置屋・料理屋からなる街だからからです。まず、お客さんが茶屋に予約する。それを聞いた女将がふさわしい料理屋を選び、その趣向を係と料理人が考え、仕出しをして、芸者も用意する。茶屋というのは、座敷を持った手配師なわけです。置屋は芸者を育てる場です。これら3つの独立した業が1つになることで、初めて花柳界は成立したんです。 
 
当時、「田中屋」という大きな茶屋がありました。建物は隣の土地が空けば買い増しして、まるで迷路のような大きな家でした。創業者は立派な方でしたが、高齢で後継者がいなかったので、祖父が譲り受けたそうです。料理人だった祖父は、厨房をつくるところから始めました。 

銀座は、私にとっては子供の頃から生まれ育った地です。ここで成功している人の共通点は、この街に感謝をしていること。たとえ逆風の中にあっても、「銀座のおかげ」と感謝する思いを忘れない人たちだと、つくづく思います。私がやっていることは、銀座のど真ん中の商売だとは決して思わない。脇役ですが、ピリリと辛い山椒の小粒役ができたらいいですね。
原:私も前に勤めていた会社の本社が銀座だったので、とても好きな街です。古いものから新しいものまで、文化の香りが強いですよね。
岡副:新橋演舞場の「東をどり」が、今年で95回目を迎えました。大正14年、演舞場のこけら落とし公演が始まりでした。花柳界の経営環境は厳しく、大きな力があった場所しか残っていないのが現状です。普段は一見さんお断りで営業していますが、広く社会と接点を持たないと独りよがりになってしまいます。世間の人に自らをさらすことで、より上を目指せるのではと考えて始まったのが、「東をどり」です。 
 
新橋の花柳界ができてから150年目の節目のときから、私が東をどりの責任者になりました。
その頃から、東をどりの開催期間の4日間は、新橋演舞場が大料亭になっています。1つは珍しい食材や酒。ここまでなら、ただの料理屋ですが、さらに芸者衆がいる。それによってお客さんを楽しませる域が広がります。しかも踊って終わりなら、ただのディナーショーですが、この料亭ではさっきまで演奏者だった人が座敷の中で空気の進行役をしていく。それが芸者衆の価値なんです。私は東をどりを将来的に、銀座の催事にできないかと考えています。
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大人の文化,花柳界を守っていきたい

原:これからやっていきたいことは何でしょう。
岡副:還暦まであと2年ですが、ガンを患って6年たつこともあり、あまり大きな風呂敷は広げられません。金田中の本店から始まり、2万円の価格帯の「金田中庵」、セルリアンタワー東急ホテルの「金田中草」などをオープンしてきました。価格帯によって使う食材は変われど、金田中の中では出汁はみんな一緒です。いろいろな種類の金田中を、これからも作っていきたい。お客さんには、用途別で店を決めてもらうといいですね。接待なら本店、フランス人と食事なら能舞台が隣接する「数寄屋金田中」、会社の部下とさし飲みするときは銀座の「金田中庵」で一杯……といった具合に。 
 
本店の天井が高い2階の大広間を式場にしたいとも思っています。77畳の大広間は、これまでは株主総会の時期には満杯でしたが、今は夏場はガラ空きです。もともと披露宴は料亭でやるものだったんです。銀座の他所と提携して、「料亭ウェデイング」などを考えています。

東をどりは、まもなく100回を迎えますが、このときに大きな渦巻きを作りたいですね。東京には、関ヶ原の戦い以降の歴史しかありません。では、東京の唯一無二とは何か。ここは、日本中のいろいろな田舎者が集まってできた町です。日本を表すときに、東京ほど都合のいいところはない。だからオリンピックも東京都がふさわしかったんだと思います。 

現在の東をどりは、4日間10回公演であるのに対し、100回の時は10日間、開催したい。最後の4日間はいつも通りに行うが、初めの6日間12公演は日本中の芸者衆に声をかけて、12通りの舞台にしたいと思います。踊りというものは、お客さんのことを考えなければならない。そのために芯となる街はどこか。赤坂や金沢、新潟、八王子、東京六花街(芳町、新橋:銀座、赤坂、神楽坂、浅草、向島)や渋谷の円山町も声をかけたいですね。

せっかく日本各地から芸者が集まってくる機会なので、ただ単に「東をどり100回おめでとう」ではなく、この計画を日本中の花柳界にも各地の財界の方々にも広めて、企業の名入りの提灯を100社、1,000社と作って、次の100年に向けてどこかに飾りたい。
原:文化が子供化している中、そういった大人の文化をなくさないようにしていきたいものですね。
岡副:東をどりには恒例のフィナーレがあります。芸者衆は黒の引き着で舞台に並び、口上から観客を巻き込む手締めへ。踊りは俗曲「さわぎ」の節に乗せ、芸者衆が花道へ広がり、客席へ手ぬぐいを撒いて演者と客席が一体となり、東をどりの幕を引きます。これを見てドキドキしなくなったら、僕は終わりだと思うんです。この口上に、皆さんに参加してもらう。街と全国をつなげて、さわぎを終えるのです。私の役目は大渦巻きを起こすこと。その隙間のビジネスは、若い方にやってもらいたいものです。
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HARA'S AFTER
第4次産業革命という大転換点にあって、時間の流れがとても速くなっていると感じる。その中で、料亭の持つゆったりとした時の流れ、花柳界の空気感、東をどりなど文化的行事の風流さは、とても大切で、かつ現代にあっては失われやすいものだろう。
 
岡副さんは銀座を代表する名店「金田中」の4代目当主として、料亭の持つ風雅な世界を進化させようと、東をどりを中心に全国の花柳界を結びつけるという大きな仕掛けを構想されている。事業進化をめざす経営者は多いが、文化を守ろうとしている経営者は少ないのではないか。地域の新しい魅力の創出は都民としても大歓迎だ。5年後の東をどり、楽しみにしましょう。

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