2015-06経営者145_石村工業_石村様

大震災で何もかもが流された工場を
経営原則の実行で復活させた
不屈の経営者

石村工業株式会社 代表取締役社長

石村 眞一さん

大学を卒業して千葉県の機械メーカーで勤務した後、父親が創立した石村工業に入社する。大手製鐵所の下請けを10年間行うが、1989年の高炉休止により、受注がまったくなくなる。自社製品開発を20数年間続け、木質燃料ストーブやワカメの高速撹拌塩蔵装置をヒットさせた同社は、東日本大震災の津波により、会社・自宅ともに壊滅的な被害を受けるが、自社製品のおかげでいち早く復興。2年前より、釜石地域のものづくり企業で「新製品研究会」を立ち上げ、地方の中小企業が自社製品や技術で全国・世界へ打って出る研究を続けている。文部科学大臣賞を受賞した技術力と顧客志向で、地域から全国・世界を目指す不屈の経営者に話を聞いた。
Profile
岩手大学工学部卒業後、千葉の機械メーカーに就職し、設計の技術力を磨く。その後、父親の要請で石村工業に戻り、自社製品の開発に取り組む。ヒット製品も生まれて軌道に乗りかけたとき、東日本大震災によって工場を失ってしまうが、従業員とともに1ヵ月間でのスピード復興を果たし、さらなる新商品開発に挑戦中。

従業員は瓦礫の中、徒歩や自転車で会社に来て、片付けをしてくれていた
それを見て、会社をやめるわけにはいかないと思いました

— 東日本大震災では、大変なご経験をされたそうですね。どのような状況でしたか。
2011年3月11日の14時46分は、会社におりました。あのときの記憶は鮮明ですが、尋常ではない地震でしたので、すぐに従業員を家に帰しました。工場や家は海のそばで、津波の怖さは子どもの頃から聞いていましたから、すぐに家族全員で近くの学校へ避難しました。避難所である学校の上から津波を見たのですが、映画でも見ているようで現実感がなく、信じられない気持ちでした。

釜石には幸い、大きな防波堤がありましたので、数分程度の時間は稼ぐことができたのですが、そのわずかな時間が多くの人々の命を救ってくれました。いまでも、盛り上がってくるような不気味な津波が目に浮かびます。水の力はとても強く、3つあった当社の工場のうち、1つは全壊で、残りの2つは骨組みだけになってしまいました。自宅は形こそ残りましたが、すっぽり海の下になってしまって使えないので、いまは別の場所に住んでいます。 
釜石だけで1,000人近くもの方が亡くなってしまい、悲しむ感覚が麻痺してしまったほどです。知り合いも亡くなり、その夜は「会社をやめても良いかな…」と弱気になりました。それまでに行った設備投資の借金もありましたので、途方に暮れましたね。

でも、従業員は瓦礫の中、ガソリンがなく、自動車が使えない状況下で、徒歩や自転車で会社に来て、片付けをしてくれていたのです。それを見て、会社をやめるわけにはいかないと思いました。

従業員は皆、会社がなくなるなどとは思っていないのです。経営者の責任として、「会社を続けていかなければ」と決意しました。その後の1ヵ月間は、何も指示を出さなかったのですが、自分たちで工場の建屋に応急処置をし、可能な範囲で稼働を開始することができました。ものづくり職人の技術力が活きましたね。
— 機械を作る技術が、工場再建や設備整備などに役立ったのですね。かなりスピーディな復活劇のように思えます。
再稼働に向けては、資金調達が私の最初の仕事でした。釜石市内の銀行は、個人向けの対応で大変でしたので、まずは盛岡の銀行へ行き、融資を依頼しました。作業服にリュックサックを背負い、帽子をかぶって、被災から2週間後に銀行へ行ったのです。その際、半年分の運転資金を申し入れたのですが、幸いにも、すんなりと融資を引き受けてもらえました。

その後、5月20日頃から主力商品である薪ストーブ「クラフトマン」を作り始めましたが、そのきっかけは、全国からお見舞いを兼ねて注文が入ったことです。お客様のありがたさを痛感しましたね。それまでに当社の製品を使っていただいていたお客様が、心配して連絡をくださり、ありがたいことに注文までくださったのです。中古機械を4月中に手配していましたので、すぐに生産に入ることができました。

さらに、もう1つの主力商品である、ワカメの塩漬けを行う「しおまる」にも注文が入り始めます。6月頃に地元の漁師さんから、「復興の支援を受けてワカメが収穫できるようになったから、作ってくれ」と頼まれたのです。そのことで再建のスピードがさらに早まり、その後も順調に売上が増えていきました。

震災後は100〜150台が売れましたが、いまは10台以下になってしまいました。ワカメが売れないのは、風評被害などの影響もあるようです。

三陸は、全国のワカメの生産量の約7割を占める地域ですので、他地域での機械需要は少ないんです。今年はワカメの価格が上がっていますので、これからの展開を楽しみにしているところです。また新たな用途として、漬物用の機械も開発しています。

薪ストーブの需要は、震災を経て徐々に増えており、それまでの出荷ペースに戻ったところです。年間150〜200台ですね。売り方を工夫すれば、もっと売れると思うのですが、私を含めて技術者集団ですので、なかなかうまくいきません(笑)。

釜石の産業面は、9割近く復興したと言えるのではないでしょうか
でも冷静になると、「この状況が終わったら、どうなるのだろう」と思います

— 地域全体での復興の状況は、いかがでしょうか。特にものづくり系の企業は設備の問題があるため、他の産業よりも時間がかかるのでは。
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当社の場合は、どちらの主力商品も人の手づくりで、立派な工作機械で作るものではありませんので、再稼働までの時間は短かったと言えます。設備投資については、3/4ほどは補助金が出ましたし、工場を修理しながら製品を作り続けてきましたので、1年後には元の姿に戻ることができました。早く手をつけた会社は早く立ち直りましたが、そうでない会社はうまくいっていません。

とにかく、経営者の動きが重要ですね。「補助金が出たらやろう」という考えでは、お客様が逃げてしまいます。会社には従業員がいますので、存続させることは経営者の義務なんです。当社は現状、震災前よりも従業員が増えています。下請け部品加工だけでやっていたら、こうはならなかったでしょうね。
— 被災地の復興は、現地の方から見てどの程度進んでいますか。
釜石の産業面は、9割近く復興したと言えるのではないでしょうか。水産加工業も補助金が出ましたので、比較的大きな会社は早く立ち直りましたが、小さな会社が苦しんでいます。大きな理由としては、設備が復活しても従業員が集まらないことが挙げられます。業界を問わず、最終的には販売力の重要性を痛感しています。

いまは、建設関係の方が多く滞在していますので、夜の街やホテルは結構混んでいて、表向きはにぎやかです。でも冷静になると、「この状況が終わったら、どうなるのだろう」と思います。個人の住宅の復興はまだまだで、多くの方が仮設住宅で暮らしていますが、私は幸いにも、中古住宅を見つけることができました。
— 復興は着々と進みつつあるものの、道半ばというところでしょうか。皆さん、早く落ち着いた暮らしができるようになると良いですね。会社はもともと、ご自身で始められたのですか。
私の父親が昭和34年に創業した会社で、当時繁栄していた新日鐵釜石の下請けでした。本家では造船所を営んでいたのですが、父が旧ソ連での戦後の抑留から帰ってきて、この会社を立ち上げました。鉄鋼関係のプラント修理や設備製作など、溶接をはじめとする技術を活かして大きなものを作っていました。私は岩手大学工学部を卒業してから、千葉の機械メーカーで働きました。2年ちょっとの間、設計や組み立ての仕事を行っていましたが、その後、釜石に戻ることにしました。長男ですから、いずれは戻らなくてはならないと思っていましたので。きっかけは、ある日の夜中、父親から突然電話があり、「帰ってこい」と言われたんです。

釜石に戻ってからは会社の仕事を手伝いましたが、現場監督のようなことは、自分のやりたい仕事ではありませんでしたし、取引先が私たち下請けに対していばるのが嫌でした。ですから、新日鐵釜石の高炉が停止して、私たちも仕事がなくなったときは大変だった反面、ホッとして解放されたような気分でしたね(笑)。

千葉の機械メーカーでは自社製品を作っていましたので、その後は私も中心となり、危機感を感じている地元の若い人たちと組合を作って、独自商品づくりのための研究開発に力を入れました。全部で13社が集まる任意のグループでしたが、組合にして県の補助金を受け、開発を行いました。皆30代で、若い2代目経営者の集まりでしたので、盛り上がりながら取り組んでいましたね。

毎年テーマを決め、どこかが責任会社になって自社製品を開発し、それ以外が補佐をする仕組みにしました。発案は私でしたので、最初に責任会社を務めましたが、見よう見まねながら、自分たちで何でもやったのが良かったですね。

月に2回の活動でしたが、当社ではイクラ100gを自動的にパック詰めする機械を開発しました。皆が一緒だと、それぞれが責任を持たなくなりますので、責任会社を決めてやったのが成果につながったのだと思います。その機械は16台売れましたが、難しかったというのが実感です。

その後、新聞に取り上げられるなど話題になり、大手商社から10台の注文が来て喜んだのですが、実はそれが失敗の元でした。平成4年に完成したその機械は、当時はアラスカからも注文が入るほどでしたが、商社の担当者が代わるなどして、すぐに売れなくなってしまったのです。自分で売ろうとすれば、もっと売れたはずで、人任せではダメなことを痛感しました。

ニーズをつかんでおかないと、でき上がる製品が的外れになってしまう
お客様の要望に応えることで、私たちも発展できます

— 技術重視でやっていると、どうしても営業が苦手なケースがありますね。それが両立できると、強い会社になるのでしょうが。
ものづくりにおいては、実際に使うお客様とコミュニケーションをとり、ニーズをつかんでおかないと、でき上がる製品が的外れになってしまいます。その後も光ファイバーの看板など、さまざまな開発をしましたが、製品のテーマを決めるのが大変なんです。そんな中、苦しみながらも、下請けではなく、完成品を販売した経験が、現在の商売に活きています。
自分で売る勉強もしてきました。いまでは会話を楽しめるまでになりましたが、最初はお客様の前では声も出ませんでしたね(笑)。薪ストーブも、最初は自分の車に積み、広島や北海道などで売って回ったんです。当時は、自然環境関係のNPOなどをターゲットに活動しました。

開発のきっかけは、県の工業技術センターのアドバイスでしたが、薪ストーブは当初から結構売れたんです。最初は40台の生産でしたが、いまでは150台に増えています。沖縄以外のすべての県で売れましたが、積極的に営業をかければ、もっと売れるはずです。ありがたかったのは、千葉県南房総市の取組みでした。農家の暖房費削減のために、当社の薪ストーブ「ゴロン太」の無料モニター事業を行ってくれたのです。当時の連続燃焼時間は8時間だったのですが、改良を依頼され、12時間以上の連続燃焼が可能な「スーパーゴロン太」を完成させました。このようなお客様の要望に応えることで、私たちも発展できます。
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当社の製品が評価され、文部科学大臣賞をもらえることになりました
私だけ中小企業の社長が混じっているんです(笑)

— もう1つの主力商品である塩漬けマシン「しおまる」についてはいかがでしょうか。
国内のワカメ産業は、中国産の進出によってダメージを受けました。現在、国内で流通しているワカメの7割以上が中国産で、それまでの主力だった三陸ワカメは全盛期の半分以下になっています。同様に危機的状況だったノリは、機械化によって復活しましたが、重労働であるワカメの刈取りも、それまで手作業だったものを機械化することで、コストダウンにつなげました。

特に、手作業での塩漬けが一昼夜かかる重労働でしたので、試しに家庭用洗濯機でやってみたところ、塩が短時間で入るようになったんです。いまは、2mもの大きな機械になっています。

ワカメは1年に1回しか取れないのですが、ワカメがないと実験ができませんので、開発には5年ほどかかりました。でも、融資を受けて開発・製造に投資し、ようやくヒットして50台ほど売れるようになったタイミングで津波に遭い、設備が破壊されてしまったんです。

また、ワカメのタンク揚げもつらい作業なのですが、「しおまる」だと楽にできます。漁師の方々に感謝されますので、とてもやりがいのある仕事ですね。実は、そのような当社の製品が評価され、文部科学大臣賞をもらえることになりました。他の受賞者は大学の先生などで、私だけ中小企業の社長が混じっているんです(笑)。
ー 今後の事業展開を、どのようにお考えですか。
現在の独自開発路線で、自社製品をどんどん出していきたいですね。売れるものはセンミツ、つまり1,000あって3つと言われていますから、「ゴロン太」と「しおまる」が生まれたのは、たまたまだと思っています。

現在、海水を使った製氷機で、電気分解の技術を用いて、水素水が入った氷を使うと魚が長持ちするものを開発中です。鮮度保持が可能ですので、水産会社に売ることになります。特長は、水素が入っているため、酸化しないことと、氷をパーシャル(微凍結)と同じ状態にできることです。

この商品によって、東南アジアの方々も刺身を食べられるようになります。魚が獲れない地域でも、新鮮な魚を食べられるのです。現在はデータを収集中で、来年には販売予定です。魚の鮮度保持の方法はさまざまありますので、売れるかどうかは五分五分だと思っていますが。
ー 会社を支えるような、売れる商品を作るコツをお聞かせください。
やはり、ニーズへの対応ですね。お客様が欲しいものを作ることです。そのためには、現場を回って歩くことが重要で、漁師や農家の方と仲良くなり、各方面にアンテナを張るのが私流です。今回の製氷機の発想も、東北活性化センターからの「中国電力の保有特許提供の話があるので、事業化しませんか」という提案がきっかけになって生まれたんです。私の仲間たちは皆、高齢化していますので、研究開発活動があまり活発ではなくなりました。そこで2年前、地域の研究開発チームを、新たに若い世代で作りました。最初は私が事務局を務めていましたが、いまは支援機関がありますので、そこに任せています。地域で一緒に盛り上がりたいですね。皆でやると、情報の入り方が違います。

これからの中小企業は、下請けだけでは厳しく、自社製品を持っていないと、生き残ってはいけないでしょう。そのためには、経営者の意思が大事です。自社に技術がなくても、お金と知恵を投資し、人材を活用すれば良いんです。当社も、自社製品が知られるようになってさまざまなオファーがあり、良い人材も入るようになりました。

今回の震災で廃業した会社も2社ありますが、地域として、自社製品を出さなければならないという雰囲気ができてきました。かつては全部自力でやっていたのですが、いまは地域に支援機関があったり、産学官の交流会ができたりなど、環境にも恵まれています。会社の発展には人材が不可欠ですが、面白い会社であれば、自然に集まってくれると思います。当社にも、「働きたい」という工業系の大学院を出た方が来てくれました。地元出身ではなく、ボランティアで被災地支援に来ていた方です。今後、やりがいのあるものづくり企業であり続けるためにも、自社製品の開発が重要と考えています。

地方の会社ですが、できることはたくさんあります
地域で役立つものは全国、やがては世界でも売れるようになるんです

— 最後に、石村社長にとっての挑戦とは。
経営者は、常に挑戦だと思います。新しいことをどんどんやっていかないと、現状維持だけでは会社がダメになってしまいます。世の中に役立つ機械を、自ら汗をかいて生み出すことですね。

地方の会社ですが、できることはたくさんあります。地域で役立つものは全国、やがては世界でも売れるようになるんです。

そのためには、地域の中で関係を作ること、地域の人に製品を提供し、実証してもらうことが重要です。まずは地域内で使ってもらい、それをベースに、全国や世界へと広げていきたい。「しおまる」には、アイルランドから引き合いが来ています。地域も、世界に通じているんですね。

薪ストーブは、知人の会社が海外の現地法人に紹介してくれ、「しおまる」はインターネットで問い合わせが来ました。いまの時代は、地方のほうが面白いと実感しています。情報は、どこにいても受発信できますからね。最初はものにならないものも多かったですが、苦労してきた甲斐あって、地域の振興に貢献できているのかな、と思います。
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目からウロコ
会社を経営していると、不況や競争激化など大小さまざまな波を被るが、大震災による津波のような巨大な波はまずない。そのような逆境の中、たくましく進化する経営者の話を聞け、非常に元気をいただいた。

再確認できたのが、シンプルな経営の原則である、顧客が求める商品を作り、しっかりと営業をすれば、会社は繁栄するということ。何もかもが津波で流された後に残った、会社経営の真理である。昨今、やたらと複雑になっている経営論は、いま一度原点に戻るべきかもしれない。

中小企業が不足するリソースを補い、競争に勝つには、アライアンス(連携)が有効——これも古くからある経営の原則だが、石村社長は下請けから脱却する際にこの原則を活用した。派手さはないが、セオリーに適った経営と言える。地方創生が叫ばれているが、このような取組みこそが、地方中小企業成長の原則だ。インターネットを活用すれば、世界中への情報受発信が可能だし、公的な支援スキームも整ってきた。先進的なネットビジネスやニューサービスは都会のほうが先行するかもしれないが、地道に産業を支える地方の価値を見逃してはならない。
(原 正紀)

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