2013-05経営者120_T&T_比嘉様02

Think & Try(T&T)を社名に
沖縄に木造建築市場を開拓したパイオニア

株式会社T&T 代表取締役

比嘉 武さん

高校卒業後、決まっていた大学への進学を見送って社会人の道を選び、さらに海外へと向かう。ソ連(当時)を経てイギリスに行き、大学で勉強しながらさまざまな仕事に従事する。帰国後、高校時代の友人たちより「自分たちが出資するから、沖縄に残って会社を立ち上げてほしい」と説得され、その厚意に応えてT&Tを設立。当初はリフォームなどの仕事を請けるが、他社と違う路線を目指し、沖縄では0.1%のシェアしかなかった木造住宅に挑戦する。その後、シロアリや台風との戦いを制し、木造住宅市場を確立した。社名のThink&Tryを地で行くパイオニア的経営者に話を聞いた。
Profile
沖縄県出身で、若い頃には海外を放浪するが、友人たちより出資をするから沖縄で起業するよう説得され、T&Tを創業。当初はリフォームなどを行うが、特長ある会社を目指し、木造住宅の設計・施工に踏み切る。パイオニアとして木造建築の営業に注力し、協会設立などを経て、沖縄に木造住宅市場を確立した。

木造なら小さな池の大きな魚になれる
どちらが良いかを考え、迷わず木造住宅メーカーの道を選びました

— 私も沖縄にはよく行きますが、コンクリートの民家が多い印象です。その中で、パイオニアとして木造住宅を拡大されてきたそうですね。
私が木造住宅に取り組み始めた当時、沖縄の住宅着工件数における木造の比率は、わずか 0.1%にすぎませんでしたが、2010 年に10%を超え、2011 年には 15%近くまで伸びました。コンクリートに比べてコストのかからない木造が、いまの時代に合ってきているのでしょう。

とは言え、その要因は当社だけでなく、県外から中堅住宅産業の沖縄進出が相次いでいること、また内地のメーカーからノウハウを借りて、地元業者が受注するフランチャイズ契約が増えていることが挙げられます。頑張ってマーケットを作ってきましたが、その分競争も激しくなった感じです(笑)。当社はすべて自社の技術で行ってきましたので、それを強みに競争に勝っていきますよ。

もともとは、内装リフォームを中心にやってきましたが、それだけでは売上にも利益にも限界を感じ、住宅建築に挑戦することにしたのです。でも、後発である当社が、他社と同じコンクリートの家づくりを始めても、大きな池の小さな魚にしかなれません。でも、木造なら小さな池の大きな魚になれる。どちらが良いかを考え、迷わず木造住宅メーカーの道を選びました。

わずか 0.1%の市場しかない状況にも、挑戦心をかき立てられましたね。市場を拡大できれば、当然、当社もそれとともに成長できるということですから。木造住宅と言っても、さまざまな手法があります。熟慮を重ねて私が選んだのは、アメリカやカナダで一般的だったツーバイフォー住宅です。柱を使わず、主に2インチ × 4インチの角材を使い、壁や床などの面で家を創る工法です。

断熱性に優れ、自由な設計が可能な点で優れています。内地の木造住宅では、在来軸組み工法が中心でしたが、沖縄にはその工法に対応できる職人がいませんでした。規格化された部品を組み立てるほうが拡販しやすいと思ったのも、ツーバイフォーに踏み切った理由の1つです。昭和 60 年頃に研究を始め、アメリカやカナダにも視察に行きました。
— まさに差別化戦略、ニッチマーケット狙いですね。でも、いきなり海外に行っても、そう簡単にノウハウを得ることはできないのでは。
アメリカでは、思わぬ歓迎を受けました。まだ徴兵制が残っていたベトナム戦争時のアメリカでは、沖縄に赴任した人がたくさんいて、私が沖縄から来たとわかると、とても親しくしてくれたんです。ワシントン大学の先生からも、大変有効なアドバイスを受けることができ、材料を直接輸入するネットワークも構築できました。全米住宅建設業協会(NAHB)にも登録しましたが、若い頃に外国を放浪した経験も活きて、しっかりとコミュニケーションがとれましたね。

このような準備期間が5年ほどあったのですが、そのおかげで、独自路線での住宅建築業進出が叶いました。昭和 63 年に株式会社への改組を行い、その年に初めて建築の仕事を請け負います。実は木造ではなく、鉄筋コンクリート4階建てのアパートでしたが...。沖縄ではまだまだ、コンクリート神話が強かったんですね。

専門業者に協力してもらい、自分たちは内装を中心に担当して建てました。その仕事を成し遂げ、実績もでき始めた頃、ある銀行系列の不動産会社から、墓地の隣の土地活用について相談を受けました。そこで、アパートを作って一棟売りすることを提案したところ、何と広告を出してから2時間で売れてしまったのです。

その会社から、さらに分譲住宅の仕事をもらい、7棟をツーバイフォーで建築して、それも短期間で完売させることができました。その後は、とんとん拍子に注文が増え、非常に順調なスタートだと思ったものです。でも実は、それからが戦いの連続でした。その相手は競争会社ではなく、亜熱帯である沖縄に広く分布するシロアリでした。

シロアリ対策は一筋縄ではいかず、試行錯誤をくり返しましたが
正面から戦いを挑んだことで、さまざまな手法を確立できました

ーシロアリ! それは強敵ですね。東京では最近はあまり聞かなくなりましたが、木造住宅にとっては天敵ですよね。
沖縄で木造住宅のビジネスをする際の最大の敵は、台風とシロアリです。台風対策については、屋根の瓦をネジで固定したり、暴風雨にも耐えられるサッシを開発したりして、割と早く対策を打てました。でも、シロアリ対策は一筋縄ではいかず、試行錯誤をくり返しました。

最初に建てた木造の7棟は、近くに豊かな森があったせいか、シロアリが大量に発生し、5棟が被害を受けて対応に追われる日々でした。また別の建物では、シロアリ対策を講じるために、約3週間住民にホテルを用意し、住宅の修理費はもちろん、宿泊・食事・通学などの費用もすべて負担しました。
でも、その対応にお客さんは感服してくれ、中には文句を言うのではなく、感謝をしてくれる人もいました。結果的に信頼を得て、リフォームの仕事につながったりもしましたね。その後も、シロアリとの戦いは試行錯誤の連続でしたが、正面から戦いを挑んだことで、さまざまな手法を確立できました。

基礎は土間コンクリート、犬走り、基礎の立ち上がりの三位一体となるような、当社オリジナルの工法を開発しました。さらに、沖縄の強い風を取り込む二重構造の壁に、シロアリの巣を壊滅させるベイトという円筒形装置を埋め込む対応も行いました。その結果、平成5年以降に建てた住宅では、シロアリの被害が出ていません。
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ービジネスでの敵は、競合企業だけではありませんね。そのような戦いの勝利があったからこそ、沖縄での木造住宅増加につながったのでしょう。その後の活動は、どのようなものでしたか。
もともと行動するのが好きなので、さまざまなことに取り組みました。平成 10 年には、「第1回全国健康住宅サミット沖縄大会」に中心的にかかわりました。ツーバイフォーと併せて、木造軸工法による家づくりにも取り組みます。職人の技術レベルが向上してきたので、施工可能と判断しました。もちろん、台風に耐えられる「沖縄型」の木造軸工法として、です。

平成 13 年には、日本増改築産業協会の沖縄支部設立にもかかわり、初代支部長を引き受けました。平成 21 年には沖縄木造住宅協同組合を設立し、木造住宅建築業者のレベルアップや情報共有を推進しています。自社のノウハウを公開することに対し、社内では反対意見もありましたが、それによって顧客から木造住宅に対する信頼を得ることで、市場を拡大できると考えたのです。

私は書籍を出版したり、雑誌や新聞の取材に応えたりして、技術やノウハウを惜しみなくオープンにしてきました。それも、県内で木造住宅市場が拡大してきた要因だと思います。自社の取組みとしても、平成 21 年に「炭の家」と「コンパクトハウス」という2種類の住宅商品を開発しました。

「炭の家」は、床下と1、2階の間に、合計1トンほどの炭を敷き詰める工法です。炭には空気清浄、消臭、調湿などの効果があり、健康に非常に良い影響を及ぼします。カーボンエアクリーンシステムを取り入れた健康住宅で、当社が県内販売の使用権を取得しています。北海道に視察に行った際、この家に住んでいるユーザーから、「数年住んでいるにもかかわらず、家と空気が良い」という高評価を聞き、導入を決めました。

また「コンパクトハウス」は、土地を含めた建築総費用を 2,500 万円程度に抑えるもので、20 代の若者や世帯年収 300 万円以下の家庭でも、家賃程度の負担でマイホーム取得が可能となります。今後は、これらを主力商品にしていきたいですね。この企画では、県から「経営革新計画」の承認も得ることができました。

これからは、堅調なリフォーム需要にも対応します。創業以来、4,500 件以上の工事実績がある事業です。さらに、当社の木造建築技術を活かしたデイサービス用施設や、サービス付き高齢者用賃貸住宅の開発・建設にも取り組みます。今後の成長分野である医療福祉領域のニーズにも、ぜひ応えていきたいと思います。

人がやらないことをやるのが私の主義です
おかげ様でいまでは、 「先見の明がありましたね」なんて言われます(笑)

— まさに、コロンブスの卵ですね。いまでこそ木造が当たり前でしょうが、もともとはほとんどなかったんですから。改めて、木造住宅に至った経緯を詳しくお聞かせください。
木造住宅に取り組み始めた当初は、わずか0.1%のシェアですから、銀行には反対され、周囲からも笑われて、逆風の中でのスタートでしたね。でも、人がやらないことをやるのが私の主義です。おかげ様でいまでは、「先見の明がありましたね」なんて言われます(笑)。思えば、これまでの私の道のりは、そんな風に人と違う道をあえて行くことの連続でした。

私の社会人のスタートは、放浪の日々でした。那覇高校在学時代は、沖縄が日本に復帰する前で、選抜試験に合格すると内地の大学に進学できるという、国が主催する進学支援制度があり、私はその試験に合格し、大学の建築科に進む権利を得ていました。でも、型にはまるのが嫌だったので、高校卒業後に東京にいた姉を頼って上京し、そのまま大学に入らずに水産会社に就職します。その後、いくつかの仕事を転々とし、そのうちに海外に行きたいと思うようになったのです。

友人がいたため、何となくロンドンに行こうと思いました。ただ、お金はあまりなかったので、横浜から船で日本海を渡り、ソ連のナホトカに向かい、まずはユーラシア大陸に上陸しました。その際、モスクワのホテルで持ち帰り自由の共産党関係の書籍があり、何の気なしにカバンに入れたのですが、それがイギリス入国の際、手荷物検査でチェックされてしまいます。別室に連れて行かれ、本格的に追及されましたが、タダほど高いものはありませんね(笑)。

小さな会社が業界の先頭を走るのは
すべての風当たりが来て、本当に大変でした

— かなりムチャというか、冒険的な旅立ちですね(笑)。暖かい沖縄から東京を経て、極寒のナホトカですか。普通に大学に行き、サラリーマンになるのとは、だいぶ違うスタートですね。
その後、何とか6ヵ月の観光ビザが下りて、ロンドンでの生活が始まります。ビザの期限が切れる際に学生ビザに切り替えたかったので、昼は学び、夜はアルバイトという生活でした。英語がまったくダメだったので、毎日徹夜で勉強しましたね。それでも、いっこうに英語の会話ができず、自分のふがいなさに腹が立ちましたが、ある朝目覚めると、英語が話せるようになっていたのです。不思議ですね。最近は英語を使う機会もなく、すっかり忘れてしまいましたが。

イギリスに行った人は皆、食事は美味しくないけれど、パブにはまた行きたいと言います。「風邪をひいたら、黒ビールに卵を入れて飲め」と言われるほど、パブはポピュラーな存在で、美味しいビールと喧騒が何とも言えません。ロンドンに2年間住んでいたのですが、パブに行かなかった日はないほどで(笑)。その後、アメリカの大学に行こうと思ったのですが、イギリス入国の際に引っかかったことが原因でビザが下りず、日本に帰ることにしたんです。

沖縄に戻ったのは、昭和 53 年でした。個人で創業したのですが、1年経ってもなかなか仕事は安定しません。再びヨーロッパに渡りたい気持ちがわいてきたそのとき、高校時代の友人たちに強く引き止められます。「もう放浪はせず、沖縄で働け。皆で出資するから、会社を作れ」と言われ、腹をくくって起業を決意しました。友人たちが出してくれた資本金 480 万円でのスタートです。

そこまでしてもらったので、もう放浪はしないと心に誓いました。実はドイツに彼女がいて、結婚を考えていたのですが、それもあきらめざるを得ませんでした。学生時代から自分の能力に自信があり、何でもできる自分にふさわしい生き方は、世界で活躍することだと思い込んでいたんです。でも、何でもできると思っていたのに、実は何もできていないことに気づきました。
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有限会社での起業当初は、インテリアサービスを行っていました。ホテルなどを中心に営業をする中で、頼まれたら何でもやりました。ドブさらいなども引き受けていましたが、その仕事ぶりが認められ、内装工事をもらえるようになっていきます。そこで従業員を増やし、本格的なリフォーム会社として成長することができました。そんな中、リフォームだけでは限界があると考えて、住宅建築に挑戦することにしたのです。

営業から設計、施工管理、納品まで、すべて自分でやってきましたので、このビジネスの仕組みはすべてわかります。小さな会社が業界の先頭を走るのは、すべての風当たりが来て、本当に大変でした。2番手で陰に隠れ、風をよけながら経営するのが正解かもしれませんが、そうしたやせ我慢の経営こそが、自分流だと思っています。
同級生からの出資による起業ですか。まさに「出志者」ですね。そのような応援があれば、経営者として心強い。今後の展開については、どのようにお考えですか。
当面の方針は、営業の徹底です。消費税問題もあり、他社に後れをとらないよう、駆け込み需要に対応しなければなりません。昨年から今年にかけて、若手社員を十数人雇用しましたが、私が営業本部長を兼務し、自らノルマを定めて率先営業を行います。社員が増えたので、若手を育てるためにも、少額のリフォーム受注にも力を入れます。
小さくても自分で仕事をとり、責任を持って施工を進め、納品して喜んでいただくこと。そのような一連のプロセスを通じて、成功体験を積み上げることで、モチベーションも高まるし、必要なノウハウも身につけていけます。若手社員は、当社の将来を担う重要な財産です。しっかりと育てていきたいと思います。
長期的には、ホールディングカンパニー化を目指していきます。いまある当社の機能や、これから取り組む新規事業を成長させ、機能別に分社していく構想です。木造住宅会社、コンクリート住宅会社、コンパクトハウス、高齢・医療建築、リフォーム、アパート建築、戸建て販売、不動産、中古住宅販売、設備、地域ごとの営業所、福祉施設、飲食店...そうした会社を創り、社員に経営を任せていきたい。その構想実現のためにも、当面は売上を伸ばすことが大事です。そして、それを可能にする素地はできたと思います。
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沖縄県に木造住宅文化を根づかせること。その努力の延長にあるのが、
さらに先の目標・ホールディングカンパニー構想です

— 最後に、比嘉社長にとっての挑戦とは。
事業面では、沖縄県に木造住宅文化を根づかせることです。事業上の差別化として木造市場を選んだのですが、それを選んだ経営者の意地として、木造住宅をできるだけ広げていきたいと思います。その努力の延長にあるのが、さらに先の目標であるホールディングカンパニー構想です。それも、私にとっての挑戦ですね。

20 人以上の社長たちを育てていきたいんです。当社では毎年、分厚い経営計画書を作成し、全社員と株主に配っていますが、これは会社の状況をオープンにするのと同時に、社員への経営教育の一環でもあります。ホールディングカンパニー構想が実現したら、私はオーナーとして、配当で暮らしていきたいですね。当社も友人の厚意に応えるために、ここ 20 年ほどずっと、株主に配当をしてきていますから(笑)。
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株式会社T&T DATA

創業:1978 年7月1日,設立:1980 年6月3日,資本金:3,750 万円,従業員:25 名,事業内容:木造住宅(2× 4)の設計・施工,アパート・マンションの設計・施工,一般個人住宅の設計・施工,商業建築の設計・施工,住宅増改築工事施工,各種インテリア工事施工など
目からウロコ
多くの経営者とお会いして感じるのは、その個性的なエネルギーである。俗にオーラと呼ばれるものかもしれない。友人たちの出資で起業したエピソードからは、比嘉社長が何かをやってくれそうなエネルギーを振りまいている印象を持った。沖縄県での木造住宅の発展は、そんなエネルギーから生まれた成果だ。その原動力の1つは、若い頃の放浪経験にあるのかもしれないが、冒険心がなければ、新しい価値の創造は難しい。放浪にもさまざまなパターンがあるが、比嘉社長は自分の可能性に強く自信を持ち、やりがいを見つけるために海外へ向かった。若い頃に海外の暮らしを経験することには大いに価値があり、イマドキの若者も自分探しなら、海外でするべきだ。

「大きな池の小さな魚になるより、小さな池の大きな魚を目指す」、「他社の陰で風を避けながら進むより、向かい風を受けても先頭に立つ」という姿勢が印象に残った。中小企業の戦略としてニッチトップ戦略が語られるが、どうすればそれができるのか。ニッチ市場を先駆けて見出し、向かい風を受けて先頭を走り続けるのは、簡単ではない。多くの中小企業は結局、フォロワー戦略に終始している。他と違うあり方を強く願う自意識と、障害を乗り越える強い意思がないと、ニッチトップ戦略を成し遂げることはできない。分厚い年度経営計画書には、戦略を推進する強い意思に加え、冷静な論理性も見える。同じ経営者として、大いに勉強になる1冊だった。
(原 正紀)

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