2015-05経営者144_ティーケーピー_河野様 (1)

成熟市場の中に成長市場を見出し、拡大する
バリューイノベーション型経営者

株式会社ティーケーピー 代表取締役社長

河野 貴輝さん

慶應義塾大学在学中、アルバイトで貯めた資金を元手に株式投資を経験。プロになることを目指して、伊藤忠商事の為替証券部に就職。ディーラーとして資金の運用経験を積み、日本オンライン証券(現・カブドットコム証券)の立ち上げにメンバーとして参画。ⅠTの世界にも興味を持ち、ネットオークションでビジネスを体験する。その後、伊藤忠商事を退社してイーバンク銀行(現・楽天銀行)の立ち上げに参画し、出資を募りながら大手企業の経営者などとの人脈を作る。ⅠTバブルの2005年に、実体のあるビジネスの必要性を感じて、不動産の有効活用を目指す株式会社ティーケーピーを起業。リスクをコントロールする挑戦スタイルで、急成長を遂げた経営者に話を聞いた。
Profile
慶應義塾大学卒業後、伊藤忠商事の為替証券部で、ディーラーやインターネット証券会社の設立を経験。退社後にインターネット銀行の立ち上げに参画し、取締役営業本部長などを歴任した後、2005年8月に株式会社ティーケーピーを創業。貸会議室事業を中心に成長させ、さらに多角化、海外展開などを推進中。

貸会議室ビジネスは当社の根幹
無駄な投資などを一切行わずに拡大できた、省エネ型のビジネスモデルですね(笑)

— 私もよくセミナー開催などで会議室を使いますが、日本中で社名を拝見します。TKPとは、どのような由来なのでしょうか。
もともとは、私の名前から「Takateru Kawano Partners」でしたが、いまは「Team Kakumei with Passion!」としています。

革命という言葉が好きなので、当社の3つの行動指針にも入れています。行動指針は「①スピード重視」、「②Yes We Can!」、「③常に創造!改善!革命!」の3つです。

実は創業時は、社名は何でもいいと考えていたんです(笑)。だから自分の名前から始めて、その次には「Tokyo Kashi Place」としていた時期もありました。当初のビジネスでは、東京で貸会議室を広げていく活動が主体だったのですが、東京以外にも広がってきたので、さらに変えていきました。 

当社のWebサイトの名称が「貸会議室ネット」ですので、「名前を広めるために、社名もそれにしよう」という意見もありました。でもその時点で、自分たちは貸会議室ビジネスだけで終わらないだろうと、皆の認識が一致したので、そのままTKPという社名でやってきたのです。
— 当初の貸会議室ビジネスから、いまはずいぶん発展されたそうですね。現状の事業について教えてください。
現在は、大きく分けて6つの事業分野で展開しています。ホテル宴会場・貸会議室事業、レンタル事業、料飲・レストラン運営事業、海外事業・旅行関連事業、ホテル&リゾート事業、コールセンター事業の6つで、根幹をなすのは、創業以来のビジネスであるホテル宴会場・貸会議室事業ですね。

「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方よしのビジネスを創り上げました。あまり使われていない不動産物件を活用して、安価で会議室などを調達したい企業などに貸し、さらにニーズに合わせたサービスを提供するというモデルです。無理な投資などを一切行わずに拡大できた、省エネ型のビジネスモデルですね(笑)。

グレード別に4階層のバリエーションでの事業となっています(図表参照)。もっとも高品質なのはガーデンシティで、最高の立地に最新鋭の設備で展開する、大きなキャパシティのホテル内会場などの提供です。次がカンファレンスセンターで、多目的に利用できるハイグレードなイベントスペース。さらに、リーズナブルな会議施設であるビジネスセンター、そして地域密着型のデイリーユースが可能なスター貸会議室という4階層です。
プリント
もともとは1ヵ所の貸会議室から始めましたが、現在は直営の会議室数が業界断トツで、駅近で便利な立地の会場を全国で運営しており、合計で東京ドーム4.5個分もの面積になっています。海外もニューヨーク、上海、香港、シンガポールと4ヵ所に進出しました。

私が10年前に発見したモデルですが、あまり使われていない会議室などをレンタル契約で借り、それを貸会議室として貸していくというシンプルなものです。レンタルなので、一般の不動産のような礼金や敷金が不要で、かつ先に会議室利用料の入金があり、後から家賃の支払いとなるため、キャッシュフロー的にもメリットがあります。

でも、最初からこれだけ広がるという確信があったわけではありません。きっかけは、六本木でのある風景でした。六本木ヒルズには明かりが煌々と灯っている。かたや、現在のミッドタウンの辺り、当時の防衛庁跡地に目を向けると真っ暗で、取り壊しが決まったような古いビルがひっそりと佇んでいる。そんな対照的な光景を見たとき、同じ利便性の高い場所なのに、その金銭的価値はずいぶん違うものだと感じました。そう考えていたところ、あるビルのオーナーから、「1階が立ち退くまでの間、2階と3階を何か使ってもらえないか」と持ちかけられたのです。

最初は、「安く借りられそうだから、とりあえず借りてみよう」という気持ちでした。立地としては同じくらいの価値があるのですから、「安く借りておけば、何か利ザヤを稼げるのでは」といった考えです。当時はまだ数名の会社でしたので、私自身がビルを探して部屋を借り、貸す相手も自分で探すという地道な商売でしたね。

レッドオーシャンの中にもブルーオーシャンはある
そこにあるマーケットに気づくことができれば、有望なビジネスになるんです

— ここまで拡大されたことでその価値が証明されましたが、まさにコロンブスの卵のようなモデルですね。誰もが思いつきそうで、誰もできなかった。拡大してきたうえでのご苦労はありますか。
リーマンショックのときは5億円ものキャンセルが出たので、さすがに危機感を強めましたが、そのとき以外は一直線に拡大してきた印象です。拡大すればするほどキャッシュが生まれ、3年目ですでに20億円以上のビジネスになっていました。最初は、エレベーターのない古いビルなどに狙いをつけて、仲間と一緒に歩いて探しましたよ(笑)。

貸し先については、インターネットのサイトを使って集めました。当時は、インターネットで集客をする会社がまだ少なく、独占的に集めることができました。貸会議室を探すには、インターネットが一番便利なんです。いちいち現地へ行って、不動産屋と話すなんてことはできませんからね。

不動産賃貸は、日本全国どこにでもある、いわばレッドオーシャンの競争が激しいビジネスですが、その中にもブルーオーシャンはあります。とてもニッチな分野で、マーケットの存在も認知されていないほどですが、そこに気づくことができれば、有望なビジネスになるんです。

成長過程では、徹底的に現場でのノウハウを積み上げてきました。物件の探し方、掃除の仕方、ごみの出し方など、すべて試行錯誤のくり返しからマニュアル化していったのです。1人1時間100円の料金にしていましたので、貸した後にテーブルを拭きながら、「このひと拭きが100円」と考えると、商売の実感があって面白かったですね(笑)。

利益も雪だるま式に増えていき、地域や提供するサービスも拡大してきました。昨年度は売上が140億円を超え、今年度は200億円を目指しています。資金調達力が高まったので、場を提供するだけでなく、そこで発生するお客様のニーズにすべて応えていくために、事業拡大へのM&Aなどの投資も始めています。
— 創業10年で200億円ですか。ネットゲームなどを除くと、近年稀に見る高成長ビジネスですね。
貸会議室から始めた場を提供するビジネスはグレードを広げてきましたが、それをインフラとして、その上にさまざまなビジネスの可能性があると思います。会議などの際には、食事をとったり、機材を調達したり、宿泊したりとさまざまなニーズが出てきます。それに応えることができれば、新たなビジネスチャンスにつながります。

ケータリングについては、ホテル出身のシェフが作る本格的な料理の提供も始めていますし、老舗のお弁当屋である常盤軒から、仕出し弁当の製造販売事業を譲り受けました。会議室に併設する直営レストランも全国で12店舗運営するなど、会議やイベントでの食事の提供についても体制ができつつあります。
シェアリングエコノミー(共有経済)という言葉がありますが、まさにそれを10年前から始めたのです。ニッチとシェアリングが当初のキーワードでした。一から自分で創るのではなく、すでにあるものを活用し、シェアすることで、低コストでも利益のある事業にできると思いました。

歴史のある事業でも、中には継続困難になっているケースがあります。そこに私たちが新しいものを投入して、歴史の一部をシェアしながら再生しているのです。レッドオーシャンの既存事業の中でニッチを探し、シェアリングをして低コストでスタートするのが、私たちが作り上げたビジネスモデルです。

「とにかくスタートしてみて、ニーズがなければ撤退すればいい」というくらいの気持ちで手がけています。私が重視しているのは、「挑戦と撤退の決断」で、ずっとその方針でやってきています。リスクをとらなければリターンはありませんが、リスクをとるのは経常利益の範囲内と決めています。そうすれば、利益を出す限りは再投資が可能で、事業も拡大していくのです。

重視しているのは、「挑戦と撤退の決断」
リスクをとるのは経常利益の範囲内と決めています

ー このようなビジネスモデルを作り上げられた河野社長の、起業までのキャリアはどのようなものだったのでしょうか。
私の起業の原点は、商売をやっていた祖父の影響で、子どもの頃から将来は自分で商売をやりたいと思っていました。大学生の頃には、アルバイトで貯めた資金をもとに、株式投資も始めていたんです。でも、なかなか儲からず、貯めたお金を何度も失っていて…。当時はとても悔しい思いをしたので、その道のプロであるファンドマネジャーかディーラーになろうと思ったんです(笑)。

就職活動では金融機関を中心に回りましたが、伊藤忠商事が目的別採用を行っており、自分のやりたい分野に配属されることを知って、受けることにしました。金融機関に就職しても、ディーラーなどを任されるのは下積み後で、何年もかかると思ったからです。その後、幸いにも内定をいただいたので、伊藤忠商事への就職を決めました。

さすがに最初からディーラーというわけにはいかず、まずはディーリングを処理するバックオフィスの仕事で、運用の知識を得ていきました。2年目からはディーラーを任され、10億円は完全に自分の決済で任されていたので、良い経験をすることができましたね。 

その後は、インターネット証券事業として、日本オンライン証券(現・カブドットコム証券)を立ち上げることになり、設立にかかわりました。それがきっかけでインターネットに興味を持ち、ネットオークションで個人取引もしていました。フリーマーケットやネットなどでアイドルグッズを仕入れ、それをオークションにかけるのですが、モノを売り買いするリアルな商売の面白さにも気づきました。

そんなとき、当時の直属の上司がインターネット銀行の設立を計画し、一緒にやらないかという誘いがありました。私自身もインターネット銀行の必要性を強く感じていたので、27歳で伊藤忠商事を退職してイーバンク銀行(現・楽天銀行)に転じ、取締役営業本部長などを務めました。そこでベンチャー立ち上げを経験できたことは、その後の起業に大いに役立っています。
ー 学生時代から早々に、起業に向けての濃密な経験を積み上げていらっしゃいましたね。
大学を卒業後、伊藤忠商事で4年間経験を積んだ後、イーバンク銀行にかかわってやはり4年が経ったときに、自身での起業を決意しました。その後、創業して約4年でリーマンショックが起き、さらに約4年が経った頃に東日本大震災が起きます。私のターニングポイントは、オリンピックのように4年周期のようです。

最初は、それまでの経験を活かして、IPOを目指す企業に対するコンサルティングなどを想定していました。でも、ITや金融の世界にかかわっていたときから、人のビジネスのお手伝いではなく、実業的なビジネスをやりたいと思っていました。そんな中で出会った六本木の光景から、現在のビジネスに至ったのです。
貸会議室ビジネスが最初から物になるとは思っていませんでした。不動産の有効活用を考えていたときに、六本木で物件を安く借りたのがきっかけで、時間貸し・シェアリングの発想でとりあえずやってみたのです。案内はインターネットで出していただけですが、ひっきりなしに問い合わせが来る状況でした。当時はビジネスの柱をほかにも作りたかったので、できるだけ効率的にさばくようにしたのが、このビジネスにつながりました。 

会議室に必要なお客様のニーズを聞いているうちに、備品や食事などの手配もするようになり、売上がさらに拡大していきました。そのときに初めて、「会議室はビジネスになる」と確信できました。いまでは、会議室中心の場所貸しの売上は全体の65%くらいで、残りが派生したビジネスからの売上となっています。

思いついたらすぐにやる、リスクはとるが撤退も常に意識する
大胆さと臆病さを併せ持つのが自分流だと思います

ー 河野社長には独自の経営スタイルを強く感じますが、ご自身が考える河野流経営とはどのようなものでしょうか。
思いついたらすぐにやる、リスクはとるが撤退も常に意識する、というように、大胆さと臆病さを併せ持つのが自分流だと思います。ディーラーの経験から、損切りということを意識していますが、エグジット、つまりディールを終わらせるタイミングが大切です。そこで収益が確定しますからね。事業とは、挑戦と撤退の連続ではないでしょうか。

やってみることで見えてくるニーズもあります。私たちは貸会議室ビジネスで、その重要性を実感しました。実際に動いたことで、机の上では見えなかった大きなマーケットが見えてきたのです。そうしたマーケットは、既存のビジネスの中にも多く存在しています。バリューイノベーションを起こすことで、成熟市場からも新しいビジネスを立ち上げることができます。

でも、そこで終わってしまってはもったいない。マーケット創造後には、さらに新たな付加価値を与えることで、大きなマーケットにしていけるはずです。私たちはそのような付加価値提供を、他社の力でなく、自社の事業拡大によってカバーしてきました。そのときに重要だったのは、お客様とのダイレクトコミュニケーションです。

成熟と思われる市場でも、ニッチを見つけていち早く着手し、実践を通じてビジネスモデルを作り上げる。マーケット創出後は、インターネットを活用しながらも、ダイレクトコミュニケーションで付加価値を提供し、それを自社事業としてビジネス化していく。このスタイルが、これまで創り上げてきた当社流の経営手法です。

起業が成功するには信用力、資金調達力、ブランド力の3つの要素が重要で、それを創り上げていくことが経営者の役割です。私は、売上6ヵ月分のキャッシュを持つことを1つの目標と考えてきました。あまり資産の保有は考えませんでしたが、資金の余裕が出てきたので、これからは資産保有も含め、バランスをとりながらより効率的なビジネスを目指します。

新しい領域に果敢に攻め入るのは、挑戦以外の何物でもありません
「そのニッチに自分たちが挑戦しなくてどうする」という気持ちでやっていきます

— 最後に、河野社長にとっての挑戦とは。
当社のビジネスの国内マーケットはまだまだ大きくなり、それに合わせて周辺ビジネスも拡大していくでしょう。海外展開の布石も打ち始めましたが、まずは判断材料を求めているところです。当社のやり方が世界で通用するかどうかを見極めてから、本格展開につなげます。

世界に打って出るには中心を狙おうということで、ニューヨークのマンハッタンに進出しました。資本主義のど真ん中の地であり、ここで成功することは、世界のどこででも通用する証となります。参入障壁はとても高く、物価高、法的規制、そして物件の賃料もケタ外れです。でも、この地では多数のビジネスマンの会合が開催されているので、勝算は十分にあると思っています。

実は、臆病者を自認しているんです(笑)。思い切った投資をしていくのは大手企業などの仕事で、私たちの挑戦は、「あくまでもリスクをコントロールできる範囲で」と考えています。その範囲で挑戦していけば、たとえ失敗しても次の機会が残り、そこで失敗の経験を活かせばいい。挑戦することで、貴重な経験を手に入れることができるのです。

ビジネスは挑戦が基本で、積極的にニッチを見つけ、それを広げることで新しい市場ができる。新しい領域に果敢に攻め入るのは、挑戦以外の何物でもありません。既存の大手企業に負けないために、「そのニッチに自分たちが挑戦しなくてどうする」という気持ちでやっていきます。
5MAR1474
目からウロコ
ニッチトップという言葉は、これまで成長を遂げてきたベンチャー企業の不文律のようなものだが、河野社長は、そこに独自の経営スタイルを築いている。1つ目はニッチの見つけ方で、これまでのキャリアを活かし、金融的な見地から、既存の成熟市場である不動産賃貸業の中に、遊休不動産の時間貸し活用というニッチ分野を見出した。そこにITというレバレッジを効かせ、短期間で日本全国に広げていったのである。2つ目はインフラ化である。数多くの会議室や宴会場との契約を積み上げることで、自社のインフラとして育て上げ、一定の事業ベースを礎にする右肩上がりのモデルを創り上げた。さらに、そのインフラの上に新たな顧客ニーズを見つけ、派生ビジネスを自主展開することによって、事業のポートフォリオを組み立てている。3つ目は投資と撤退の考え方で、素早く積極的にリスクテイクは行うが、経常利益の範囲までと定め、果敢な事業展開に結びつけている。ディーラーの経験を活かした経営スタイルであり、それゆえに周囲からの信頼性も高く、資金力充実へとつながっているのだろう。

この河野社長流の「ニッチ発見→投資→インフラ化→派生でのポートフォリオ化」というスタイルは、多くの既存市場に当てはまるだろう。今後の海外展開には多くの壁もあるだろうが、河野社長の自信に満ちた表情を見ていると、世界を席巻するという期待感を感じる。これからの同社の展開に、大いに注目したい。
(原 正紀)

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