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事業を成長させる実践型人財として
地域の活性化トップブランドを目指す

株式会社オニオン新聞社 代表取締役

山本 寛さん

中学生のときに親の事業が倒産し、一家離散を経験する。アルバイトをしながら高校に通い、卒業時のインド一周旅行での経験から、社会に影響を与える事業を志す。メディア業界を目指して広告代理店に入社、抜群の営業成績を収める。新規のプロモーション事業を成功させた後に退社し、ベンチャー会社に誘われて入社。任されたフリーペーパー事業を年商20億円の事業に育て上げる。その後、3人の仲間と独立して経営支援事業を開始。千葉県にある地域情報誌発行元「オニオン新聞社」の経営を承継して社長に就任し、前年比140%の業績を達成。地域活性化のトップブランドを目指す経営者に話を聞いた。
Profile
高校卒業後に入社した広告代理店で抜群の成績を上げ、取締役として新規事業を任されて 、 会社の基幹事業に育て上げる。転職したベンチャー企業では、フリーペーパー事業を年商20 億円の事業へ。その後、千葉をベースとするオニオン新聞社の経営を承継して社長に就任。1年目で前年比 140%の売上を達成した。

さまざまな事業展開にチャレンジしています
世界一の地域支援ネットワークと社会貢献のために

ー とてもチャーミングな社名ですね(笑)。どのような事業をされているのですか。
大きく分けて、地域でのフリーペーパー発行等のメディア事業と、施設の運営を行うコミュニティ施設事業の2つを行っています。メディア事業では、「オニオン新聞」と「オニオンクーポン」という2種類の主力媒体を発行しています。地域としては千葉県東部と南部をカバーしており、オニオン新聞は新聞の折り込みで、オニオンクーポンは駅や各種施設の街置きで配布しています。

オニオン新聞は、スポンサーの商品・サービスの広告を主体に、地域の人に役立つイベントやニュースを載せたタブロイド版の情報フリーペーパーです。県内 17 地区で約 180万部を発行し、中高年からシニア層を中心とする安定した読者を保有しています1985年創刊で、もうすぐ 30 周年の実績があります。オニオンクーポンは、3年ほど前に創刊した、やはりタブロイド版のクーポン誌で、県内9地域で約 54 万部を発行しています。

そのほかにもインターネットでのメディアとして、千葉県下のイベントや店舗情報を検索できる「オニオン World」を運営しています。また、地域の企業とタイアップしてイベントや商業施設情報を掲載する「オニオンタウン」というメディアを今年、発行しました。これは、ポスティングや交通機関への設置等で、エリア内の世帯カバー率を高めるものです。このように、新たなメディアも積極的に発行しています。コミュニティ施設としては、「ライフステーションオニオン」を運営しています。当社の本社所在地・稲毛にある 3,000 人規模の団地内施設で、地元の農家さんの採れたて野菜やオーガニック商品等を扱う「オニオンマート」、本格的な欧風料理が気軽に味わえる「オニオンダイニング」、キッズスペース、ソーシャルインキュベーションラボが入っています。地域の拠点として、みんなに望まれる場所を作りたいと思っています。

もともとスーパーがあった跡地ですが、地域活性化の NPO が「街の駅オークヒル」を運営していて、地域のことを知るためにNPO や地元の有志と話をしているうちに、その施設を承継してくれないかと頼まれたんです。民間ノウハウで、経営的に成功させてほしいという依頼でした。経営目標としている「世界一の地域支援ネットワークを実現させ、社会に貢献すること」の達成のために、さまざまな事業展開にチャレンジしています。

地域に根差した事業展開をしていくには そこで働く人の思いを大事にしなければなりません

ー社長になったのは昨年夏とのことですが、どのような経緯から経営することになったのですか。
オニオン新聞はもともと、地元の女性グループがメディアを始めたのがスタートです。その後は、フリーペーパーが数多く利用されるようになった世の中の流れに乗って、成長してきました。4年ほど前に、IT 系の上場企業が、フリーペーパーとインターネットのメディアの融合を目指して買収したのですが、その事業があまりうまくいかずに赤字を抱えてしまいます。そこで事業承継を相談されたのが、きっかけでした。

負債も含めて引き受けることになりますので、そのときは結構悩みました。でも、誰かが引き受けなければ、せっかく続けてきた会社が消滅してしまいます。長きにわたってこれだけ地域に根差してやってきたのだから、その資源を活かせば、新たな地域支援の事業が作れるのではないかと考えたんです。
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その後は、地銀等の周囲の支援を受けて、融資や増資等によって資金調達を行い、事業を展開しています。事業承継の際は、社員はどんな経営になるか、さぞかし不安だろうと思いました。だから、できるだけ安心して仕事に取り組めるよう、処遇の見直し等によるコストダウンには、極力手を触れずに承継をしました。地域に根差した事業展開をしていくには、そこで働く人の思いを大事にしなければなりません。
経営の合理化は大事ですが、そういった人の思いをできるだけ取り入れて行うようにしたんです。フリーペーパーの競合は数多くありますが、当社の強みは、直販で広告提案をする営業部隊の存在です。それも単なる広告営業ではなく、お客様の経営のプラスになるような提案を行っています。人を強みとする事業展開をしていますが、おかげ様でいまは、前年比 140%の業積で推移できています。

貧乏でも明るくいきいきとしているインドの人たちを見て
日本をいきいきとさせるような仕事がしたいと思いました

高校を卒業するとき、テレビでやっていた旅番組の影響で、インド放浪の旅をすることにします。3ヵ月間をかけて、自分探しの旅に出たんです(笑)。日本はバブル崩壊後の就職氷河期でしたが、たとえ貧乏でも明るくいきいきとしているインドの人たちを見て、日本をそのようにいきいきとさせるような仕事がしたいと思いました。

そのためには、社会に影響力を発揮できる仕事をしようと思って考えたのが、メディア業界です。テレビ局を受けたいと思ったのですが、大卒でないと受験できません。そこで、自分でも受けられそうな会社をいろいろと調べて、結果的にメディアの広告代理店をしている会社に雇ってもらうことができました。いまでも、とても感謝しています。そこは新聞系の求人広告の代理店だったのですが、営業で頑張って3ヵ月で主任、1年で課長になり、月給で100万円ほどもらえるようになりました。
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その頃もまだ、バブル崩壊後の不景気で、お客様からは「こんなに景気が悪いのに、人を採るなんてとんでもない」と断られることも多く、何とか売上向上に貢献できる提案ができないかと、新たな販売促進のサービスを会社に提案しました。それが、商品やサービスのプロモーション広告事業だったのですが、私は立ち上げを任されて、当初の数名のチームから、会社の売上の8割ほどを占める事業にまで育て上げることができたんです。

理想としては、二十代は「突っ走る時期」
三十代は自己を確立して志を固める「立志の時期」にしたかった

—高校生から社会人になって、それだけすぐに結果を出せるのはすごいですね。「若いときの苦労は買ってでもしろ」と言いますが、つらい体験も後で生きてきます。そのまま会社にいなかったのはなぜですか。
マーケティング講座等に通って、セールスプロモーションのノウハウを学ぶなど、自分なりに努力はしましたが、まだまだ若いのに好きなことを言っていたので、古くからいた会社の幹部等と意見の衝突が出てきました。そこで、自分の意見を押し通すよりも、身を引いたほうがいいだろうと、アメリカに留学することを考えたんです。大学に行きたかったので、MBA 取得を目指すことにしました。

自ら先頭に立って事業を立ち上げてきたので、仕事の引き継ぎに半年くらいかかり、その間にあるベンチャー企業の社長から誘われることになります。「アメリカでの勉強はいつでもできる。ベンチャーでの新事業立ち上げは、めったに経験できない」という言葉に魅力を感じました。それに、よく調べたら、MBA は大学卒業の資格がないと取得できないこともわかったので(笑)。その会社で任されたのが、フリーペーパー事業の立ち上げでした。

これまで、人との出会いで人生を切り拓いてきましたが、このときも 22 歳の若造に、思い切って仕事を任せてもらいました。とてもありがたいことです。給料は 100 万円から 30 万円へと激減しましたが、その代わりに事業を進める権限を与えてもらいました。大手メディア会社の競合とぶつかりながら、フリーペーパーを立ち上げたんです。当時はまだ、有料販売の情報誌が盛んで、フリーペーパーはダサいイメージでしたね。

そこで、「もっとおしゃれなメディアを作らないと、消費者を動かせない」と思い、テレビ番組欄の充実や、プロのライターを使って記事の質をアップさせることで、高いクオリティによる部数トップを目指したのです。資本力が限られていたので、新宿、池袋、渋谷、銀座等、地域を絞って集中展開をしました。掲載社数は、創刊当時の 55 社から 1,500社にまで増やし、数名で始めた事業が 150名の陣容に、また売上は約 20 億円にまでなりました。

ここで発揮できた強みは、スピードだったと思います。大手企業ではメディアを作る際、お客様のニーズに合わせて紙面づくりをしたりすると、変更に半年くらいかかることもあります。私は、そうした事態にできるだけ早く対応するために、オール直販体制にし、デザインやコピーも内製化しました。とにかく早く動ける組織にしたんです。ハードワークでしたが、若い社員が多く、皆が成長しながらお客様の期待に応える、良い風土の組織ができました。
— 新事業を立て続けに成功させたのですね。でも、そこからまた新たな道に進むんですか。まさに「挑戦する経営者」ですね。
昨年の春までやっていたのですが、もともと 10 年くらいでひと区切りつけたいと思っていました。私の理想としては、20代は「突っ走る時期」で、30 代は自己を確立して志を固める「立志の時期」にしたかった。震災もきっかけになりましたね。結婚して家庭も安定し、これからの 10 年を考えていた頃に、オニオン新聞承継の話が出てきたんです。いままで一緒に戦ってきた仲間との別れはとてもつらかったですが、メンバーも成長していましたし、人をいきいきとさせるという使命は変わらないと思い、決断しました。

当時のオニオン新聞は、東京の IT 会社に買収されて3年ほど経っていましたが、累積で多額のマイナスになっていました。誰かが引き継がないと存続できないような状態で、私としては、この業界に恩返しをするように言われているような気がしたんです。いつかはさらに勝負のときが来ると思い、9 年ほど働きながら貯めていた貯金があったので、仲間3人と独立することを決めます。そして、「ネクストソサエティ」という会社を設立してオニオン新聞社を承継し、その後も同志を加えて経営をスタートしました。

債務超過の会社でしたが、旧経営陣の IT会社の支援もあり、再建可能と判断して挑戦したんです。社員の多くは厳しい業績の中、自信を失っている気がしました。そこで、全員でどんな会社にしていきたいかを話し合い、それまで地域ごとにバラバラだったブランドを統一することにし、オニオンブランドを強く推進することを決めました。今後は、「地域のことならオニオン」と言われるようなブランドを目指していきます。

魔法のような経営をしたわけではありません
やるべきことをしっかりとやってきた結果だと思います

— 30 にして立つ、まさに論語の世界ですね。それにしても、厳しい業績の会社で自信を失ったメンバーとともに、あっという間に前年比 140%の業績を上げたのはお見事です。
まずは、資金調達をしなければなりませんでした。当初はどこの銀行も相手にしてくれませんでしたが、県の経営革新枠をとったり、早期に黒字化させる戦略を考えたりして、地元地銀にプレゼンテーションをしたのです。自己資金もすべてはたき、保証人にもなりましたが、その本気度が認められて融資してくれることになりました。地元地銀の決断力は素晴らしいと、感謝しています。

組織改革にも注力しました。全員が営業マンのような会社の状態から、マネジメントゾーンの強化に取り組んだのです。50 人規模の会社ですが、人事制度をしっかり固め、ルールに基づいた判断をできる組織にしました。また、若手の育成や採用にも力を入れてきました。採用については、いまでは千葉の注目企業になりつつあり、大勢の応募者が来てくれます。今年は、新卒 10 名を採用する予定です。
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育成については、勉強会の開催や研修等も導入し、キックオフミーティング等では外部の方に来てもらい、社員の意識を高めるようにしています。上司を中心に、社員の声を聞きながら信頼関係を築くとともに、個々に成長意欲を持ってもらいます。本人の意欲なくしては、どんな手法を導入しても効果が出ません。さらに、CI による意識の統一も行った結果、組織基盤・資金基盤がともに整い、前年比 140%の実績を出せたのです。

魔法のような経営をしたわけではありません。やるべきことをしっかりとやってきた結果だと思います。人が財産の会社ですが、それをベースに、地域のパートナーとしてお客様の役に立つというコンセプトです。自社メディアだけでなく、広告代理店としての機能も持ち、地域のお客様の売上に貢献するようなマーケティング企画の提案もしていきます。
ー 従来の事業よりも広がりが見られ、これからの展開が楽しみですね。そのほかにも、地域活性化活動に力を入れているそうですが
今後のテーマは、インターネットをベースに地域の IT 化に貢献することですね。千葉の情報インフラはまだ遅れており、各店舗の情報発信も少ないと思います。新聞の購読率は下がってきており、これまで以上に世帯のカバー率を上げていくには、新たなメディアの投入も必要です。そのために、オニオンWorld やオニオンタウンを立ち上げたのです。

さらに、施設の展開も拡充していきたい。ライフステーションオニオンは、団地サイズのコミュニティ施設の事例としては、全国でも最大規模です。黒字化のメドも立ってきました。商業立地でなくとも施設の進出が可能という一事例になれば、各地域の活性化に大いに貢献できるはずです。

また、バス会社と連携して「まちのバスプロジェクト」という無料巡回バスも設置しました。地域のための施設として、買い物難民支援、子育て支援、新産業創出、高齢化への対応、コミュニケーションの促進等、地域の課題解決を目指します。

そのほかにも、千葉市と連携して起業家を支援し、地域に 1,000 人の社長の創出を目指す「1000 リーフパートナーシップ」、NPOやボランティアと連携して子どもたちの学習を支援する「夢の学校プロジェクト」、映画の上映会やマーケットの開催等、地域貢献活動を積極的に行っています。

これからは社員のために環境を整えることが仕事でありそれが自分の挑戦だと思っています

— 最後に、山本さんにとっての挑戦とは。
これまでの自分は、企画をして営業をしてと、事業の最前線を突っ走ってきました。でもこれからは、社員のために環境を整えることが仕事であり、それが自分の挑戦だと思っています。社員の育成、お客様の店舗の繁栄、起業家の輩出と、かかわった人たちが自立していける環境を作り出していきたいと思います。挑戦する人を応援していく会社を作り、それを全国各地に広げて1兆円の売上を目指します。毎年 50%の成長を 20 年続ければ、目標に届きます。

私が尊敬しているのはリクルート社ですが、その成長のポイントは人材ですよね。私が前に出すぎないこと、答えを言わないこと等が大事で、そうすることで人を育てるのが挑戦です。いまは社長ですが、年齢的には会社の中で下から5番目くらいなんです(笑)。若い頃から年上のメンバーのマネジメントばかりやってきましたが、その根底にあったのは人間性の尊重ですね。その原則を守りながら、皆で進んでいきたいと思います。
目からウロコ
事業を成功に導くカギは何だろう。アイデア? 経験? 才能? いや、もっと素朴な要素なのではないか。今回の取材でそれが「好奇心」、「素直さ」、「考動力」の3つだと気づかされた。

強い好奇心を持って事象を見ると、そこから多くのヒントが得られる。新しいことに取り組むには、そうした好奇心が起点となる。マーケットに対して好奇心を持って接するから、ニーズや課題が見えてくる。自らやろうと思ったことに対して、脇目もふらずに邁進することは難しく、私などはすぐに美味しそうな話に飛びついてしまう。

しかし、1つの道を突き進むにはそれを信じる素直さが必要で、事業の成就に向けた大事な要素となる。最後の「考動力」とは、常に考えながら行動を積み上げること。どんなに素晴らしいプランでも、やってみなければわからないことは多い。机の上で考えられた企画を成功させるのは、実際に障壁を乗り越える知恵と行動だ。人には、学習で身につく知恵と、実践で身につく知恵がある。若くして数々の事業を成功させた山本さんは、まさに実践の人だ。

もう1つ欠かせない要素がある。志だ。事業を成功させるためにはやり抜くことが不可欠で、それを支えるのが志だ。途中でつまずいてもやり続けることができれば、失敗を乗り越えて成功を手にできる。失敗という結論が出るのは、途中でやめてしまうからとも言える。地域のため、仲間のためという志が揺るがない限り、No1ブランドは実現するだろう。 (原 正紀)

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