2014-10経営者137_コラボハウス_菅様②1

ビジネスの最先端から地元という原点に戻り
四国の若者と歩むグローカル・リーダー

株式会社コラボハウス 代表取締役社長

菅 宏司さん

愛媛大学を卒業後、アメリカのレンセラー工科大学院に留学。何事にも積極的な言動を買われ、多国籍プロジェクトでリーダーを任される。同大学院を卒業後は、アーサー・アンダーセングループに就職、コンサルティングに従事した後、大企業での経験を求めてAIGグループに転職。社長室で保険に関する多様な業務を経験し、その後、ライフネット生命に創業チームの一員として参画する。事業開発の責任者として上場に貢献し、さらにやりたいことを追求するために会社を離れると、地元・愛媛で急成長を見せる(株)コラボハウスの社長に就任。経営と並行して、一般社団法人四国若者会議や「四国かすがいプロジェクト」を創設するなど、地域活性化にも取り組むマルチなリーダーに話を聞いた。
Profile
愛媛大学卒業後、米国レンセラー工科大学院に留学。卒業後はアーサー・アンダーセングループ、AIGグループと外資企業勤務を経て、ライフネット生命の立ち上げに参画。上場後に会社を離れ、コラボハウスの社長に招聘される。現在は同社のフランチャイズ展開などに取り組むと同時に、四国若者会議など公的活動にも注力する。

大学を卒業後、アメリカで大学院に進学しました
視野を広げるためにも、いずれは海外に行きたいと思い続けていたんです

— 菅さんはこれまで、海外も含めて非常に多くの会社や組織にかかわられたそうですね。
地元の愛媛大学を卒業後、アメリカのレンセラー工科大学の大学院に進学しました。もともと大三島という瀬戸内海に浮かぶ小さな島の出身なのですが、姉がアメリカ人と結婚したためか、自然と海外を身近に感じていました。視野を広げるためにも、いずれは海外に行ってみたいと思い続けていたんです。

漠然とした思いではあったのですが、大学の友人たちが就職活動をする中で、「アメリカが俺を呼んでいる」などと豪語し、アメリカの大学院に進学しました(笑)。でも、大学院時代はコンプレックスだらけでしたね。ただでさえ身長が低いのに、大きな外国人に囲まれ、地方の国立大学出身で、英語もろくにしゃべれない...。

授業は、年間を通してチームでプロジェクトを行うような形式だったのですが、目立っていたせいか、唯一の日本人である自分がリーダーを任されるようになりました。大きなことを言い、それを達成するために全力で行動するスタイルが珍しかったのでしょうか。友人たちはいまでも、私のことを「大げさなヤツ」と表現しますよ(笑)。

大学院を出て就職先に選んだのは、コンサルティング会社のアーサー・アンダーセングループでした。いずれは経営に携わることを決めていましたので、リスクというものに非常に興味があり、当時最先端のリスクファームと言われていた同社を選びました。入社数ヵ月にして、世界を揺るがした「エンロン事件」により、KPMG グループとの経営統合となりましたが、3年間ほどコンサルティング業務に従事しました。

財務省、環境省および会計検査院などの行政機関に対する電子政府構築計画の策定支援や、米国の予算策定調査、随意契約から一般競争入札への導入支援などに携わりました。また、クレジットカード会社や銀行など、金融機関のリスク管理計画策定などの役割も務めました。当時は頭が真っ白になるまで仕事をやりきりましたが、それがいまにつながる最高の財産になっています。
— 私も覚えがありますが、若い頃に限界まで仕事をする経験は、本当に後の財産になりますね。
30 歳を目前に控えて転職を考えたのですが、行き先については3つの条件を課しました。1つは、5年以内に市場環境が大きく変化するであろう業界、もう1つが、消費者から見て内部がよく理解できない業界です。消費者が理解できないのに発展している会社は、きっと何かうまいからくりがあるのだろうと思い、その仕組みを学ぼうと思ったんです。最後にもう1つ、グローバルな意思決定の仕組みを学べる大企業。過去の経験からも、起業した場合には、大企業との関係が多かれ少なかれ生じると考えたためです。

新聞に載っているすべての産業を対象に、消費者とメーカーの情報格差が激しいとか、値段の原価がよくわからないとか、消費者目線で思いつくままにどんどん書いていき、もっとも印がついたのが保険業界でした(笑)。そこで、当時世界で一番大きな保険会社と言われていた AIG(American International Group)グループを志望し、採用していただきました。

AIG グループでは社長室配属となり、アメリカ人2人と日本人1人、合計3人の社長に仕えました。その後、師と仰ぐ方とのご縁もあり、保険のイロハから人生訓まで、たくさんの大切なことを学ぶことができました。

具体的には、生命保険子会社2社の統合委員として、統合計画策定からその後の統合プロセスにおける実務まで幅広く担当しました。その経験は、複雑な利害や多様な人が関係するプロジェクトを行う際、成功に導くための指針となっています。
ここでも、リーマンショック後の「AIG ショック」に見舞われてしまうのですが、そういうご縁もあるようです(笑)。

そのほかにも、各社の役員が参加する合宿を計画したり、郵政民営化にかかわる調査や、予算や商品開発計画など経営計画の策定を行ったりしました。また、サッカーのマンチェスターユナイテッドやテニスのジャパンオープン、フィギュアスケートのスポンサーでもあったため、宣伝・広報・PR なども担当し、とても幅広い仕事を経験させていただきました。
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三十代の中盤をライフネット生命と歩めたことは、何物にも代えがたい経験
私は本当に人と仕事に恵まれたと思います

ー まずは留学からキャリアをスタートさせ、幅広い仕事や経験をされています。ネット系生命保険の代表的企業であるライフネット生命の創業メンバーでもあるそうですね。
きっかけは AIG 時代に、ライフネット生命の現社長である岩瀬大輔さんとランチをしたことです。そのときに意気投合し、現会長の出口治明さんの元に連れて行かれました。そこで、「ライフネット生命が成功する要因と失敗する要因を3つずつ答えてほしい」と聞かれ、自分なりの考えを伝えました。そうしたら、「僕たちの考えとも近いですね。それで、いつから来られますか?」といきなり誘われました(笑)。

夕方まで待ってほしいと伝え、会社に戻って社長に辞める許しを得て、入社を決めました。そんな経緯から、ライフネット生命には創業メンバーとして参画したんです。上場を遂げて落ち着くまで、6年間ほど働いていました。30 代の中盤をライフネット生命とともに歩めたことは、自分の人生にとって何物にも代えがたい経験です。

当時は、多様な人が集まる動物園のような会社で、いつでも立って仕事をしているような活気ある組織でしたね。優秀な同僚に囲まれ、生活者にとって最高の保険会社を創ろうと、常にホワイトボードに向かい、昼夜なく議論をしていたことが、昨日のことのように思い出されます。

ここでも、一生の師と仰げる方や最高の友人と出会うことができましたが、私は本当に人と仕事に恵まれたと思います。私が任されたのは、事業開発や商品開発に加え、人事の責任者としての職でした。生命保険を利用した新規事業の開発から、提携先の発掘・交渉、代理店機能の整備に、マスコミ広報やPR、採用まで、ベンチャー企業らしく、本当に幅広く役割を担いました。

ライフネット生命での経験を1つ挙げるとすれば、東日本大震災時の一連の対応でしょうか。生命保険の本質は、保険金や給付金を支払うことにありますが、保険の意義を明確に意識するとともに、仕事を通して社会に価値を提供することや、仕事をするうえでの真の目的が腹落ちした経験でした。震災直後、仲間たちとともに Web サイトやラジオを通じて、震災時のお金にかかわる情報提供を始めたのを皮切りに、二度の現地調査を行い、さらにすべてのご契約者の安否を確認するために、レンタカーを借りて連絡がとれない方全員を訪問しました。

上場後は、マーケティングマネージャーとして、広報・PR 分野や、販売網拡充からソーシャルメディア対応まで、主に販売面に従事してきました。退職後もアドバイザーとして活動するなど、一 OB として、一応援団として、一契約者として、活動に携わっています。

コラボハウスは地域の雇用を生み出し、若者を育てられる会社
さまざまな価値を地域で創出できる可能性を感じ、社長を引き受けました

ー 現在は、地元・愛媛県で急成長中のハウスメーカーである(株)コラボハウスの代表をされていますが、どのような経緯で引き受けたのですか。
コラボハウスは、もともと清家修吾さんと田窪寛さんというお2人が、愛媛県松山市で 2008 年に創業した若い会社です。2人はいまも役員でオーナーですので、営業や技術面を中心に、ともに経営にかかわっています。私はもともとアドバイザーをしていたのですが、会社の基盤となるような経営の強化を頼まれたのが、社長を引き受けたきっかけです。

私がやりたいことは、地域の雇用創出や若者の育成でしたから、個別企業の経営者をやるつもりはなかったのですが、コラボハウスは地域の雇用を生み出し、若者を育てることができる会社だと思っていました。最初は固辞していたのですが、さまざまな価値を地域で創出できる可能性を感じて引き受けることにしました。

現在、社長として経営全般にかかわっていますが、主なテーマとして、コラボハウスらしい社内の仕組みづくりや人材育成、新規事業開発、フランチャイズ展開などに取り組んでいます。フランチャイズには、北は北海道から南は鹿児島まで 60 社弱の会社に加盟いただいていますが、新築市場が縮小する中、地域に根ざした企業がより価値を提供できるよう、サポートを行っています。成功事例を共有し合える仲間を増やし、勝ち残れる工務店ネットワークづくりを目指しています。
ー 愛媛と東京を拠点に、四国を活性化するような公的な活動もされていますね。
四国の経済的・文化的な活性化に資する雇用創出の機会を作るために、「四国若者 1000 人会議」、「四国かすがいプロジェクト」、「Home Island Project(HIP)」 などの活動に取り組んでいます。そのほかにも、ASEAN 諸国の企業や、鴻鵠塾というNPO活動にも顧問として携わっています。

2014 年8月18 日には、一般社団法人四国若者会議を仲間とともに創設しました。さらに9月には、若者の雇用を生み出すとともに、公助・共助・自助の機能が低下する地域社会の中で、住民が安心して暮らせる社会を実現するために、若者のアイデアをビジネスとして形にしたり、高齢者の健康などを扱ったりする、かすがい株式会社の設立を予定しています。

四国は、日本の課題を10 年先取りしていると言われています。そんな課題先進地域の四国だからこそ、これからの日本を創る若者が活躍するにふさわしいステージだと考えています。若者たちが自立し、自らの手で未来を創り出すような活動をしていきたいと思っていて、その目的は3つの場を作ることです。
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1つ目は「つながりの場」で、1人でも多くの人たちを四国の人・事・物とつなげる場です。2つ目は「気づきの場」で、若者たちが自分たちの未来を自分で創る方法を知るという気づきの場です。そして3つ目が「歩み出す場」で、四国に興味を持つ若者に具体的な方法を提供する場です。そのような目的を達成するために、いくつかの活動を行っています。
中でも特徴的なのが、「四国若者 1000人会議」です。昨年からスタートしたイベントですが、四国出身者や四国に関心のある多様な人たちが、年に一度集まる場です。

第1回会議は東京・渋谷のヒカリエで、昨年末に行いました。若者のプレゼンテーションやトークセッションを行う大交流会で、多くの学生や社会人が参加してくれました。今年はプレイベントとして、「四国若者 1000 人会議 Bar」を、月に一度程度開催しています。学生を中心に、毎回 100人ほどが参加してくれています。

また、「四国かすがいプロジェクト」という、首都圏と四国の大学生、社会人の総勢50人ほどが参加する、四国での体験型インターンシップも行っています。変化を創り出せるのは外モノ、若モノ、馬鹿モノと言いますが、四国という地域が持つリアルな事象を取り上げ、地域活性に資する事業を創り出すことを目指しています。今後は規模を拡大し、地方での雇用を生み出すような展開をしていきたいと思っています。

やっぱり私は、地元が大好きなんです
若者たちに、私が一歩を踏み出したことで開けた世界を感じてほしい

— それだけマルチに動いていると、体がいくつあっても足りませんね(笑)。その原動力は何でしょうか。
人生は行動するか否かで、大事なのは意思ではないでしょうか。何事もやって損はないと思うので、「勇気を行動の共にする」という言葉を座右の銘としています。できない理由を並べて行動せずに終わる人生と、一歩踏み出して、苦労しながらもフィードバックを得る人生のどちらが良いかと考えたとき、やっぱり一歩目を踏み出そうと思いました。

つらいこともありますが、日記と同じで、後で振り返ると、自然と笑みがこぼれてくるんです。いまのような不確かな環境下では、行動したほうがリスクは少ないのではないでしょうか。もちろん、やり始めるとさまざまな課題が出てきますが、やらなければ課題すら出てきませんからね。一歩目を踏み出せば、必ずや視界が開けるものです。

やっぱり私は、地元が大好きなんです。生まれ育った瀬戸内海に浮かぶ大三島から、松山、東京、シカゴ、ニューヨークと移り住んできましたが、大きな都市に出て行けば行くほど、地元が好きになっていきました。愛媛の高校生や大学生と触れ合うと、キラリと光る若者がいるわけです。自分も一歩を踏み出す勇気があったからこそ、視界が開けました。せっかくキラリと光る若者がいるのに、踏み出す勇気を持たずに過ごしてしまうことが、すごくもったいないと思ったんです。

将来、この若者たちが雇用を生み出すかもしれないし、社会に何か新しい価値を提供できるかもしれない。そのためにも、自分が一歩を踏み出したことで開けた世界を感じてほしいと考えています。地元のために何かやっていこうと自覚したのは、実は最近のことなんです。そう思ってから、地元との関係をだんだん深めていきました。

私は 30 代半ばから、どこに軸を置いて生きていくかを悶々と考えていましたが、自分がワクワクできる場所と得意な領域の接点で生きていくことが、一番の幸せだと思うようになりました。そこでこそ、もっとも社会に価値を提供できて、自分も全力で取り組めると思いましたので、地元とともに歩み始めたんです。
— 今後は、どのような活動をお考えですか。
地元が好きと言いながらも、完全に戻る気はないんです(笑)。いまは、愛媛と海外と東京を行き来していますが、自分のポジションとして、内と外をつなぐ役割を果たしたいと思っています。それが、もっとも自分の強みを活かせますからね。

「四国かすがいプロジェクト」を企画した際、自分が若い頃に、当時のベテラン世代からたくさんの知恵をいただいたことを思い出したんです。最近の若者は、志や思い、行動力は持っているけれど、知恵とお金がない。一方でベテラン世代は、知恵や財力はあるけれど、行動力や新しいものを受け入れることに少し臆病になっているかもしれない。この2つの世代が断絶されていますので、若者とベテラン世代をつなぐことで、真に価値のあることを創り出していきたいんです。

だから、自分がその「かすがい」になろうと。鎹(かすがい)とは、2つの木材をつなぎ止める大釘のことですが、若者とベテラン、中央と地方、会議室と現場、海外と日本をつなぐ「かすがい」の機能が必要だと感じています。

私は、自分が一番ワクワクできて得意な「かすがい」として生きていくことにしました。20代の頃は「有名になりたい」、「肩書きがあるのがカッコいい」などと思っていましたが、いまはどうでもいい。知らない100 万人に「すごい!」と言われるより、体温の感じられる100人に「ありがとう!」と言われるほうが嬉しいですからね。

二十一世紀型の共助の世界を生み出せるはず
なくなりつつあるコミュニティを、新しい時代に再び活性化させたい

— 最後に、菅さんにとっての挑戦とは。
挑戦というよりも夢の実現なのですが、私は先に述べた3つのことを意識しています。1つ目は「かすがい」になることで、そのために現場を結びつけるような事業や組織を作っていきたい。2つ目は、キラリと光る地元の若者に、一歩踏み出す勇気や視座を植えつけていくこと。皆が普通に就職して社会に出るのではなく、できそうもないことに挑戦できるようになるために、大人から刺激を与えていきたい。そして3つ目は、少子高齢時代で限界とも言える地方の状況を好転させるための活動をしていきたい。そのために、魅力ある地方を生み出す活動を行います。

公助、共助、自助と言いますが、いまの時代は自助が強く求められていると思います。でも、21 世紀型の共助の世界を生み出せるはずなんです。なくなりつつあるコミュニティを、新しい時代に再び活性化させたい。それこそが、大震災が起きても整然と協力し合う日本ならではの強みだと思います。
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株式会社コラボハウス DATA

創業:1978 年7月1日,設立:1980 年6月3日,資本金:3,750 万円,従業員:25 名,事業内容:木造住宅(2× 4)の設計・施工,アパート・マンションの設計・施工,一般個人住宅の設計・施工,商業建築の設計・施工,住宅増改築工事施工,各種インテリア工事施工など
目からウロコ
グローカルという言葉があるが、まさに菅さんの活動を表すものだ。地域から世界まで行動範囲が幅広く、グローバルな視野でローカルに活動し、かつ質的にもマルチに活躍している。

菅さんの行動には、大きく3つの学ぶべき点がある。第一に、とにかく一歩を踏み出す行動力。人は経験を積むほど物事の流れが見える気になり、「どうせ...」とタカをくくって踏み出さなくなる。これだけの経験を積み上げながらも、菅さんのフットワークは実に軽く、躊躇がない。第二に、大きなビジョンを掲げ、その実現のために率先して働きかけるリーダーシップ。環境変化のスピードが速く、幅も大きいこの時代に、価値を生み出すプロジェクトを推進するうえでぴったりはまる。従来型の組織役割に準拠したリーダーシップでは、新しい価値を生み出すプロジェクトを成功には導けない。ライフネット生命やコラボハウス、四国若者会議などで発揮されている力だ。そして第三に、「かすがい」的活動、つまり「つなぐ力」。 事を成すとき、1人でできることは限られる。菅さんは、新たな拠点・愛媛で多くのキーマンを巻き込みつつある。その「つなぐ力」は、これまでの経験で培ったノウハウそのものと言える。そうした活動の原動力になっているのが、「ワクワクと得意の接点」なのだが、これは一般的ビジネスパーソンには羨望の境地かもしれない。ワクワクする仕事を自ら生み出すことに、もっと執着していこうではないか。
(原 正紀)

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